おはようございます。5年後の2011年には、宗祖親鸞聖人750回御遠忌を迎えます。そこで、御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」というタイトルでお話したいと思います。
親鸞聖人の書かれた「教行信証」の中に、「大無量寿経真実之教浄土真宗」という表現があります。浄土真宗を真実の教(おしえ)といわれるのであります。勿論、浄土真宗以外の他の宗教、宗派でもそれぞれ自分の宗教、宗派を真実の教(おしえ)ということでしょう。
私はたまたま、浄土真宗の寺院で生まれた訳ですが、生まれて20数年は、親鸞聖人の教えはおろか、宗教というものには全く関心がないどころか、逆にマルクスの云うように「宗教は悩める民衆にとっての阿片である」という言葉をこそ信じていたといっていいでしょう。勿論今でも、その言葉には意味があるとは思っていますが。
その私が、父の死ということを通して、いわば無理やりにとでもいいましょうか、40年前はじめて親鸞聖人の教えに出会うことになりました。一年間寮生活をしながら学んだ訳ですが、今から考えてみると半年以上は毎日の様に、自分がこれまで考えていたこと、学ぶこともなく宗教とは、仏教とはこんなものだと考えていたこと、それらのことと、その場で学ぶこと、聞かされることのギャップを、それを埋めるために口論の連続でした。
そのとき聞いた言葉の一つが「浄土真宗は真実の教えなのだ」ということです。私はとても反発を覚えました。何故そんなことが云えるのだ。それは単なる宗教的エゴイズムの様なものではないのかと。その言葉を語った方に、或いはその場に対して反発をしたことをよく覚えています。
しかし、その反発と同時に、その言葉にとても感動したことも覚えています。それに納得した訳では全くありませんが、感動したのです。そしてそれ以来、その言葉「浄土真宗は真実の教えなのである」はずっと気になり続けていたのです。
そのことに決着らしきものがついたのは、10数年前のことです。それは、親鸞聖人の教えは、ここでは宗教はといってもいいでしょう。親鸞聖人の宗教は誰もが、きちっと聞けば一人になることができる宗教であると考えられるようになったからであります。
親鸞聖人の宗教とは何かと問われれば、それは、誰もが間違いなく一人になることのできる宗教と答えようと思います。
この一人とは、それ以上でもなく、それ以下でもなく、ただの、ただの人間ということです。
宗教といえば、既成宗教といわれるものは勿論、新宗教とか新々宗教といわれるものも全ての宗教は、それぞれ教団というものを形成しています。私の属している真宗大谷派も勿論そうです。要するに同じ仲間、私たちの場合は、門徒といわれる人々と共に集団、教団を形成しています。つまり群れている訳です。
しかし、その仲間を作り、群れることによって、教団を形成することによって、親鸞聖人の宗教かといえば、そうであるとはいえないでしょう。
また、それとは逆に、親鸞聖人は確かにこう云われている。誰もがそのことがわかっていない、寺院や教団を形造ったりすることはおかしい、それは全く個人的なものなのだというのも、私はそれが親鸞聖人の宗教かと云われれば、いやそうではないといおうと思います。
何故そんなことがいえるのでしょうか。そのことを、これからお話していきたいと思います。
さて、何故、親鸞聖人の宗教は、一人になることの出来る宗教だといえるのでしょうか。
そのキーワード、鍵になる言葉が、親鸞聖人が自己を語る言葉「非僧非俗、僧にあらず俗にあらず」という表現です。
親鸞聖人は、1207年におこったいわゆる承元の法難によって当時の国家権力によって僧の身分を剥奪されました。そして「姓名(しょうみょう)を賜うて遠流(おんる)に処す」と、国家権力より俗名、藤井善信をもらったのですが、それも拒否したわけです。いわば、国家から排除された親鸞聖人は、今度は逆にその国家を自ら拒否したのです。そして自らその立場を「非僧非俗」と表現し、それ以後「愚禿釈親鸞」と名告ったのです。
その名告りこそが、浄土真宗を真実の教えとしたのであります。