おはようございます。前回私は、親鸞聖人の宗教は一人になることの出来る宗教だと、そしてそのキーワード、鍵になる言葉は「非僧非俗」であるといいました。この「非僧非俗」という言葉は、私が親鸞聖人の教えと出会って以来、ずっと気になり続けていた言葉であります。
仏教徒である限り、誰もが従うこととして三帰依ということがあります。「帰依仏、帰依法、帰依僧」。お釈迦さま、釈尊以来、全ての仏教徒は三宝に帰依するということを、生活の中心においています。帰依とは簡単に言えば「従う」というような意味ですから、仏教徒は、仏に従い、法、つまり仏の説かれた教に従うという訳です。次の「帰依僧」とはどういうことなのでしょうか。この時、僧というのは、いうまでもありませんが坊さんのことではなく、この僧とはサンガとも言われるように、仏教の共同体、真の共同体に帰依するのだと言われます。もっとくだいていえば、本当の、真実の共同体の一員になるのだといっていいでしょうか。
三帰依ということについては、そうだと思いながらも、何か気になることがありつづけました。それは、帰依僧ということで、いくら真実の仲間といっても、仲間を作ることは必ず仲間外れを作ることであります。私がいくら真実だといっても、私たちがいくら真実だといっても、他者は、その仲間たちはそうではないというだろう。真実がそんなに沢山ある筈のものでもないだろうと。としたら、一体その矛盾はどう解くことができるのだろうかということであります。
そんなことをずっと考えていた訳ではありませんが、何処か片隅でそのことが気にはなっていました。
そのことに、自分なりに決着らしきものがついたのが、先週述べました親鸞聖人の「大無量寿経真実之教浄土真宗」という表現であり、そしてそのことを可能にした「非僧非俗」、僧にあらず、俗にあらずという表現であります。
つまり、親鸞聖人にとっては「帰依僧」とは、変な表現ですが「帰依非僧非俗」といったらいいのかもしれません。親鸞聖人の流罪以降の生涯を考えますと、その方がふさわしいように思われます。
そのことは、ともかくとして、親鸞聖人にとって「帰依僧」とは、何かの、それがたとえ真実の共同体といわれたとしても、その仲間に入るということではなくて、一人になる、一人になることだといっていいでしょう。一人になるとは、一人ぼっち、孤独になるということではありません。それとは逆に、誰でも、国籍が違っても、民族が違っても、宗教が違っても、言語が違っても、あらゆる違いがあってもです、誰とでも水平に出会うことのできる一人になることができたということであります。つまり、他者と本当につながることの出来る根拠が成り立ったということです。
親鸞聖人にとって僧、サンガとは、閉鎖された形で、仲間として共同体を作るというのではないのです。そうではなくて、個と個、一人と一人がつながるという形で展開していく共同体、いわばネットワークの様な共同体といえばいいでしょうか。それは一人の集団、全く新しい大乗のサンガと言っていいでしょう。
そんなものが何処にあるのかと言われればここにあるという訳にはいきませんが、この親鸞聖人の「非僧非俗」という名告りは、遠くは釈尊の仏教から、そして近くは私たち真宗大谷派における真宗同朋会運動の願いにもつながっているのであります。
釈尊の遺言の一つは「自灯明、法灯明」と言われます。自らを灯火(よりどころ)とし、他を灯火(よりどころ)とするな、私の説いた法を灯火(よりどころ)として、他を灯火(よりどころ)とするな。自灯明、それは、自分で考える人間になれということであり、そして法灯明、その為には勉強(聞法)しなさいということであります。
また釈尊の「伝道宣言」では「一つの道を2人で行ってはならない」と言われています。
「スッタニパータ」という古いお経では「犀の角の如くただ独り歩め」という言葉が繰り返し使われています。
真宗同朋会運動では「家の宗教から個の自覚へ」というスローガンが掲げられています。
親鸞聖人の宗教は、一人になることのできる宗教です。
さあ、一人になりましょう。