ラジオ放送「東本願寺の時間」

玉光 順正(兵庫県 光明寺)
第6話 今、いのちがあなたを生きている [2006.3.]音声を聞く

おはようございます。親鸞聖人750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」についてお話してまいりまして、今日が私の担当の最終回となりました。
さて、無量寿といわれるいのちの内容とは、如来の本願であり、仏の名号なのだと親鸞聖人は明かにされているといってきました。
最後に「今、いのちがあなたを生きている」という時の、いのちのはたらきとは、仏の名号、南無阿弥陀仏、つまり念仏なのだということを考えてみたいと思います。
『歎異抄』の終わりに突然出てくる1207年の承元の法難の記録、そこには「法然聖人他力本願念仏宗を興行す」と述べられています。それは当時、法然上人、親鸞聖人たちの集団が人々から「他力本願念仏宗」と呼ばれていたということを示しています。
又、当時、再々にわたって「念仏禁止令」が出されたという記録もあります。
一体、幕府や朝廷、いわば国家権力といえるようなものから禁止されるような当時の念仏とはどんなものだったのでしょうか。ただ声がうるさかったということではないでしょうし、又『歎異抄』にあるように造悪無碍、念仏者にはどんな悪も碍りにならないというので勝手なことをしていたということだけでもなかっただろうと思われます。
法然上人や親鸞聖人たちの集団が「念仏宗」と呼ばれていたということは、何よりも、生き生きとした、元気のある念仏する集団だったのだろうと思います。
今、私たちは念仏宗という言葉もありませんし、念仏する声も小さくなってきているように思われます。勿論、大きな声で念仏すればよいという話ではありませんが、念仏の声が聞こえなくなってきたということは、もっと大きな問題を含んでいるように思われます。
念仏をしないということは、表現をしないということにつながっています。念仏とは、浄土真宗を名告る人々の持つ独自の自己表現といっていいのではないでしょうか。私たちは、浄土真宗を名告りながら、時代・社会の様々な問題に念仏者として表現するということはほとんどなくなってきました。
宗教とは、心の問題だということが言われることがあります。そして今は、そんなことが大事だと言われ、心の時代というような言葉もあります。それは宗教を単なる私事にしているということでもあります。
そのような心の問題ということと、念仏の声が小さくなってきたということには何かつながりがあるのではないでしょうか。そのことは、念仏よりも信心が大事だというような言い方ともつながっています。信心がはっきりしたら念仏もするんだけど、というように言われることもあります。
又このことは、私たちが日常、教えを聞く姿勢、聞法の形式ともつながっているとも言えます。先生の話をただ聞くだけで、ほとんど自分が発言することがありません。学校での講義のようになってしまっています。蓮如上人の言われる「仏法は、讃嘆・談合にきわまる」とか「4、5人の衆、寄り合い談合せよ」というようなことがなくなっていっているのではないでしょうか。つまり、自分を表現する、そして他者の批判をうけるというようなことが聞法の場でもほとんどなくなってきました。まさに一方通行でしかありません。
信心がはっきりしたら念仏もするんだけどといっている限り、信心もはっきりしませんし、私たちは死ぬまで念仏者として表現するということはできないように思われます。何故なら、念仏に目覚めることをこそが信心というものであるからです。
あらゆることに対して『歎異抄』が「一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり」というように、常識的ではあるけれども、念仏者として生きているとはいえないというのが、現代の多くの念仏者であるといってしまえばいいすぎでしょうか。当然それは禁止されたりすることのない念仏であると言わねばなりません。
「今、いのちがあなたを生きている」とは、死に急ぎ、他者を見失っている現代の人類に、私たちに、親鸞聖人や蓮如上人の時代の念仏者たちの生き様に心をはせながら、元気を出して生きよとの呼びかけの言葉であります。如来の本願を念仏として表現せよとの呼びかけです。

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