ラジオ放送「東本願寺の時間」

玉光 順正(兵庫県 光明寺)
第4話 今、いのちがあなたを生きている [2006.2.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」と言った時の今とは、一体何を言おうとしているのでしょうか。今というのはまさに今であって、限定された時を言うことには違いありません。私たちは常に今を生きているのであって、過ぎ去った過去や未だ来ない未来を生きているのではありません。誰かが言うように「今、ここ、自分」のその合計が自分の一生ということになるわけです。勿論その通りですが、そのように言ってしまうとどうしても関係性ということが見えなくなってしまい、刹那的になってしまう危険性があります。
日本人の時間意識は常に今ということしかないと言われることがあります。それこそ今日問題になっている歴史意識ということがそうです。未来思考等ということをいいながら、実際は自分たちの今の都合しか考えていないというところをアジアの国々をはじめとして日本内外の人々から批判を受けているのが、靖国問題等にあらわれている今の日本のすがたというものではないでしょうか。
関係性ということを確保した今ということが大切なことです。
今とは、過去から未来へと向かう今、それは、ある意味で連続する時間を断絶する今といえるでしょう。連続する時間を断絶するといいましたが、それは、過去と未来を切り裂く、或いは無関係にということではありません。むしろ過去と未来に責任を持つという形で、今という時があるといわねばならないでしょう。
蓮如上人はそのことをこそ「後生の一大事」といっているのでしょう。
今という時は、私たちにとって、単なる時間の流れの中ということではなくて、時を歴史として引き受ける、断絶することによってつなぐ、歴史を背負うという意味を持っていると言っていいでしょう。
具体的には、例えば私たち真宗大谷派教団に属するものとしましては、かつての戦争協力やその推進の問題でもありますし、部落差別やハンセン病等の差別に加担してきた問題でもあります。それらのいわば私たちがおこした負の歴史というものを忘れることなく、そして未来に対しては、子供たちにどんな地球環境を残すのか、日本という国に希望が持てるようにするのか等ということであります。
親鸞聖人はそのようなことをこそ「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と言われたに違いありません。
ところで、親鸞聖人は今ということをどの様に表現されているのでしょうか。親鸞聖人には「今の時」という表現がいくつか出てきます。そして、それらは、聖人の時代に大きな問題となった末法という言葉、或いは末代という言葉を通して、今の時という表現がでてきています。そのことは何を意味しているのでしょうか。
親鸞聖人は「教行信証」の中で「安楽集」を引いて「第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん」と言われています。お寺を建てること、論争ばかりおこること、末法という時代はまさに仏教が形だけ、言葉だけになってしまったということでしょう。まさに現代の仏教の状況も言い当てたものといえるかもしれません。勿論、仏教だけではありません。マスコミ・ファシズム時代といっていい今日、言葉はあふれているのですが、それらの言葉は事の軽重を乱すと言いますか、大事なこととそうでないことを逆転させているというのが情報過多の今日の社会といっていいでしょう。
仏教が形だけ、言葉だけになってしまったといいましたが、もう10年以上前になりますが「寺は風景にすぎない」という言葉がよく言われたことがあります。今も余り変わっていないかもしれませんし、又、仏教ルネサンスとして注目を浴びている寺であっても、それも又、企業と全く変わらないように思われなくもありません。
こころとかいのちという言葉が溢れていることもそうでしょう。こころとかいのちという言葉を堕落させるもの、それは宗教教団も含めてですが、まさに末法当来ということに外なりません。
それをこそ、親鸞聖人は「今の時」と受け止められる訳です。「今、いのちがあなたを生きている」その今とは、末法を末代として生きる、つまり、今のときを他者と共に生きようとする意志をいうといっていいでしょう。
「往生浄土」浄土に往生するとは、変わり続けること、そして解放されつづけることです。

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