ラジオ放送「東本願寺の時間」

玉光 順正(兵庫県 光明寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2006.2.]音声を聞く

おはようございます。先週までに、私は親鸞聖人の宗教とは、誰もが一人になることが出来る宗教だということをお話しました。そしてそのキーワード、鍵になる言葉が親鸞聖人の書かれた「教行信証」での「大無量寿経真実之教浄土真宗」と、流罪の記録の中での「非僧非俗、僧にあらず、俗にあらず」ということだといってきました。
今日は、この中で「大無量寿経」という言葉が何故ここで使われているのかということを考えてみたいと思います。
親鸞聖人は同じ「教行信証」の中で「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」と言われています。真実の教とは大無量寿経なんだと言われています。これをもって、大無量寿経だけが真実の教であって、その他の経典は真実の教、これは教(おしえ)ということですが、そうではないんだということではないでしょう。
何も親鸞聖人は独善的に、大無量寿経だけが真実を説いているのであって、その他の経典は偽物だといいたいのではないでしょう。そうではなくて、親鸞聖人は、たまたま大無量寿経を通して真実之教に出会うことができたということであり、それを浄土真宗といわれています。
つまり、親鸞聖人は、人間が生きることの真実、その原理を大無量寿経を通して明かにされた、その原理をこそ「浄土真宗」というのだということでしょう。浄土真宗はそれは、単なる宗派の名前というわけではありません。
親鸞聖人にとっては、たまたま大無量寿経だった訳ですから、他の人にとっては、法華経でもよかったでしょうし、或いはキリスト教のバイブルでもイスラム教のコーランでもいいのでしょう。そこで人間が生きることの真実、その道理に出会うかどうかということが問題なのでしょう。
さて、真宗大谷派は5年後の親鸞聖人750回御遠忌に向けて「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを発信しました。
実は、このテーマは、人間が生きることの真実、その原理を親鸞聖人が明かにされた「大無量寿経」ということと深くつながっています。
そのことを話していく前に、テーマということを少し考えてみたいと思います。
テーマというのは、元々ドイツ語で主題というような意味らしいのですが、ここではむしろ課題と考えた方がいいのではないかと思います。つまり、私たちは「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を課題として親鸞聖人の750回御遠忌をつとめようということです。
課題というのは、それは決して答えということではありません。私たちが、今日の時代社会を生きるのに、どんなテーマを、課題を持っているのかということは、私たちの生き方そのものを決めてくるものといわねばなりません。
また、同じ言葉を聞いても、それをどの様に受け止めるかは、それぞれの人によって違うということもあります。それもまた当然のことだといえるでしょう。
今、私はテーマとは課題であるといいましたが、私は親鸞聖人のいわれる信心というものは、課題をいただくことだと考えています。何か単純に救われたとか、助かったとか、安心できた。これでよかった等ということではないと思っています。
課題をいただくこととしての信心というものは、いずれにしてもそう簡単に決着がつくというものではありません。生涯かかっても決着がつかないことがあるかもしれません。いや必ずそうなると言った方がいいかもしれません。私は親鸞聖人の言われる信心をいただくことは、終わりなき道を歩むこと、無限に中途なる道を歩むことだと考えています。
何故なら、その課題というものは、私より、自分より大きなものですから、自分で背負うよりしようがないものです。生涯をかけて担うよりしようがないもの、身に余る課題をいただくことを信心というのでしょう。そこでは単純にありがたがったり、喜んだりしているひまはないといってもいいのではないでしょうか。
そんな課題をいただく言葉として、真宗大谷派は「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを発信しました。とするなら、逆に私たちは、その言葉に応答しなければなりません。もっといえば、その言葉から何を読み取ることが出来るのかということが問われていることです。

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