ラジオ放送「東本願寺の時間」

花山 孝介(三重県 遍崇寺)
第1話 今、いのちがあなたを生きている [2006.4.]音声を聞く

おはようございます。今回から6回にわたって「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話をさせていただきます。
さて、私達の日頃の生活を取り巻く状況は、新聞やニュース等で報道されているように、毎日と言っていいほど新しい事件や事故、様々な出来事が起こっています。それらに対して、心を痛めたり、憤りを感じている方も多いと思います。
ところが、余りにも次から次へと新しい出来事が起こっていますので、それに関わった当事者か余程の関心を持った人でない限り、それらの出来事を忘れてしまい、いつの間にか大きな事件や事故についても、そんなこともあったなあという記憶の中に消えてしまっているのが現状ではないかと思います。つまり、その時は自分にとってこの事は一大事だと騒いでいた事でも、月日の流れ・時間の経過と共に、まるでなかったかの様に生活をしているのが正直なところです。
または、自分にとって思い通りにならなかったり、自分がその状況についていけなくなれば、「昔はよかった」と、過去を基準にして今を批判しますし、その逆に、「いつかは何とかなる」と楽観的に思うことで、自分をなだめたりもしています。しかし、実際の所、様々な問題に遭遇しながらも、それによって私自身の日々の生き方が変わったかと言えば、これまで通りに、ただ毎日を同じように時間の経過だけで終わらせているだけではないでしょうか。
その様な私たちの在り方は、本願寺第八代蓮如上人が『御文』の中で「ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、年月をおくるばかりなり」と教え、また、真宗大谷派の本多恵先生は「人は昨日にこだわり明日を夢見て今日を忘れる」とご指摘されるような内容の人生になっているのではありませんか。つまり、私たちの日々の生活は、「昨日はこうだったなあ」と後悔しながらも、その後悔の中身を確かめないままに「明日はこうしよう」と期待ばかり膨らませています。しかし、私の身の事実は「今を生きている」以外にはありません。にも関わらず、その今を私たちは「昨日にこだわり、明日を夢見」る様な中身にしたり、逆に「今」あることが当たり前で、しかも明日も明後日も同じように来ると信じています。それは、見方を変えれば、少しも今現在に立てずに、浮遊している事を意味していると思います。
考えてみれば、一生に一度しかないこの「今」という時を、私たちは余りにも当たり前にしながら、いつしかその大事さに気付かずに過ごしているのではないでしょうか。私たちは、いつも現状が悪くなれば過去に捕らわれるか、逆に未来に期待ばかりして、「今生きている」という事実に一度も真向かいにならずに生きているのでしょう。だからこそ、今ある事への感動もなければ、充実感もない、自分の身の問題にならないのだと思います。
人間は過去に戻ることは出来ません。そういう意味では、誰にとっても、二度と来ることのないこの「今」こそが、かけがえのない時であり、身が生きている事実そのものではないでしょうか。しかし、その大切さを見失い無駄に過ごしているところに、「今」という一瞬をいのちが生きていることを忘れて、自分自身を空しく終わらせようとしているのではないかと思います。

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