おはようございます。今回も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話を進めて参ります。
さて、前回も触れましたが、私達はいつも幸福を求めて生きています。それもいつか、何処かで私の夢が実現することを期待しながら、毎日それを求めて生きています。
しかし、私がどの様に思うにしても、すでにしていのちの事実は一歩一歩を着実に歩んでいるのではないでしょうか。私の思いを超えて「いま、ここにある事実」は、そのことを私がどの様に解釈をし説明したり意味づけしようとも、生きてあること自体は、とても不思議なことでしかないと云うほかないのではないでしょうか。
いのちの事実そのものが、空しく終わっていくということはないと思います。しかし、この事実を忘却し、忘れていることすら感じることなく、後悔と待望の中で、空しく日々を送っているのが、この私たちの日常の生き様ではないでしょうか。
それで思い出すのが、太宰治の『斜陽』という本の中に、この様な文章の一節があります。
それは、
待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの1パーセントを占めているだけの感情で、あとの99パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。幸福の足音が廊下に聞こえるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。
という文章です。
私たちの生き方において、空しく過ぎるということは、それは決して何かが不足しているのでもなければ、誰かが悪いからでもないのではないでしょうか。問題は、私たち一人ひとりが、本当に今のこの事実に立って生きていないからではないかと思います。「私」が「私の思い」「私の都合」によって生きていく限り、人生が空しく終わってしまうのは避けられないことであるように思われます。
明石海人(あかしかいじん)という詩人の詩にこの様な詩がありました。
深海で生きる魚族のように、自らが燃えなければ、どこにも光はない
この詩人は、ハンセン病という過酷な病に冒された中で、自分の他に幸福を求めるのではなく、わが身の事実を見据え、自身のいのちの尊厳さに目覚め、そのいのちを生き尽くして、生涯を全うした人であります。
私という存在の引き受け手は、考えてみれば私以外にはありません。にも関わらず、都合のいい理想の自分を夢見て、何かいつもあるべきではない方向に幸福を求めて、彷徨っているのが私たちの生き方そのものであるように思われます。
この詩人の詩を改めて読む時考えさせられたことは、病気で苦しむ自分を恨み、自分自身の誕生さえ呪ったこともあったのではないかと想像できます。これは、状況の重い軽いはあるにしても、似た様な経験は私たちにもあるように思います。しかし、その様な自身との葛藤を通して、改めて「自らが燃えなければ、どこにも光はない」と言い切る詩人の背景にはどの様なメッセージが託されているのでしょうか。次回少し考えてみたいと思います。