ラジオ放送「東本願寺の時間」

花山 孝介(三重県 遍崇寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2006.5.]音声を聞く

おはようございます。今回も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話を進めて参ります。
さて、最近頻繁に新聞やニュースなどで報道される中で、やたらと殺人が多いことにお気付きだと思います。特に、理由がよく分からずに無差別に起こる殺人、親子間に起こる殺人が多いように思います。これに対して、「余りにもいのちが軽視されている」または「人間性が見失われている」と感じている人も多いと思います。
ところで、仏教では、人間の存在を「一回性・無常(有限)・単独・無代者」という4つの限定を生きるものと教えています。
例えば、私たちは如何に夫婦、兄姉、親子であろうともその存在においては「単独」的にしか生きていません。更にその身は誰かに代わってもらうことの出来ない身として生きています。また、私たちのいのちには限りがあります。最近ではめざましい医療技術の進歩により人間の平均寿命が延びてきています。しかし、いかに平均寿命が延びて、今や百歳以上の方も多くいらっしゃいますが、誰もがそうなれるという事ではありません。自分がその様に成るかは別ですし、ましてやいのち終わらずに永遠に生き続けると言うことは出来ないわけです。そういう意味で、必ず限りがある「有限」の身を生きていますし、決して止まることがありませんから「無常」です。しかも人生は一回限りです。この4つの限定を生きるところに人間の事実があると仏教では教えています。
確かに、このことについて、私たちはその事を頭では知っていますし、特に病気になったり、自分の思い通りにならずに落ち込んだりした時は考える場合もあります。しかし、残念ながら、日々の生活の中で、その事に何時も心がけているかと言えば、余りそんなことを考えずに生きているのではないでしょうか。どちらかというと考えるのは厄介だ、面倒くさいと思っている人も多いでしょうし、今の自分には関係ない、そんな事は問題が起こった時に考えればよくて、とりあえず今が楽しければいいという生き方が流行っているようにも思われます。
その様な私たちに対し、
「人は、自身の事実が見えないから生きておれるのかもしれない。しかし現実が認識され、そこからの出発がない限り、真の救いはない」
と真宗大谷派の本多恵先生も指摘されています。
誰がどの様に理屈を付けようとも、先程の4つの限定を持って人間は生きています。しかし、その事実が見えないから好き勝手なことが言えるのでしょう。しかし、それはどこまでも自分の経験に基づく勝手な思いであって、そこに固執する限り内容は「つもり」・「だろう」の話で、確かな保証はありません。逆に、4つの限定を持ち、しかも死を併せもって生きている私自身が「今生きている」ということは、考えてみれば人知を超えた不思議なことでしかありません。にも関わらず、自分の思いは間違いないと思っている私たち、科学的なものの見方、経験への固執、人知を最高のものとして疑わない人間の在り方そのものが問題ではないかと思います。逆に様々な問題が出ている事を縁として、私たちは謙虚に仏様の教えに耳を傾ける事から、本当に生きるという歩みが始まるのではないでしょうか。

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