おはようございます。今回も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話を進めて参ります。
さて、私たちの生活・生き方はどの様なものであるかと考えれば、未来に向かって幸福(しあわせ)を求めて歩んで生きているということではないでしょうか。それは、ある意味では私たちの自然な生き方であると思います。例えば、「人生は目的を持たなければならない」と、目的を持つことの大切さを小さい時から教えられました。また、「目標に向かって一歩一歩しっかり生きなさい」と、目標を持って生きることも同じように教えられました。
しかし、その様な形で目標を実現して、自分の思い通りに幸せになれた人はどれくらいいるでしょうか。考えてみれば、それほど多くないように思われます。改めて自分の人生を振り返ってみれば、その時その時の状況に翻弄されながら、時間や流行に流されながら生きてきたように思います。
その様な中で私は、一つの詩に出合いました。それは山村暮鳥(ぼちょう)という方の「月夜の牡丹」という詩です。その詩は、
「いつ花をひらきいつ実を結ぶか青空よわたしはしらない」
という大変短い詩です。この詩を読んだ時、私は今ここに他でない私として生きている事実があるにも関わらず、いつの間にかそれを忘れて生きていたのではないだろうか、という思いを持ちました。それは、何時も人生で花の開くことばかりを思い、自分の思いが実を結ぶ様になることを夢見て人生を送っているのが、今の私たちの生き方かも知れませんが、しかし、その自分の思いや夢とは余りにも現実には隔たりがあり、その様な自分に気がつく時、現在の自分を嘆き悲しみながら、いつの間にか時間だけが空しく過ぎ去っていたことを実感される方も多いでしょう。相田みつをさんの詩にもありますように、
そのうちお金がたまったら そのうち家でも建てたら そのうち子どもから手が放れたら そのうち仕事が落ち着いたら そのうち時間のゆとりができたら そのうち…そのうち…そのうち…と できない理由をくりかえしているうちに結局は何もやらなかった 空しい人生の幕が下りて頭の上に淋しい墓標が立つ そのうちそのうち日がくれる いま来たこの道かえれない。 |
という形で表現された内容の人生だと言えます。私の思いは何処を目指していても、私のいのちの事実は、いま、ここの一瞬一瞬をしか生きていません。だから、私の思い通りに現実が運ばなくても、行き先が見えなくなっても、この今の確かな事実はいつも、私を離れることなく、私を呼び続けているのではないかと思います。誰も保証付きで生まれてきたものは一人もいません。「いつ花をひらくかいつ実を結ぶか」ということは、私の思いを超えた事でしかないように思われますし、本当に大事にしなければならないことを後回しにして生きている私の在り方に対し、それでいいのですか、と問いかけられているように思います。