おはようございます。今朝も、親鸞聖人のご生涯を通して、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを考えてまいりたいと思います。
29歳で、「一人の人間」として、人びとともに、生涯を尽くして悔いることのない生き方を、あらゆる存在と共に歩もうと決意された親鸞聖人は、そうした生き方を、阿弥陀如来、すなわちはかることのできないいのちのはたらきを、心から敬い信じる、という生き方として人びとと確かめておられた、吉水の法然上人のもとを訪ねられました。法然上人は、比叡山で「智慧第一の法然房」と呼ばれた人物でしたが、この時、比叡山を降りて、社会で様々な生き方をしていた多くの人びととともに、阿弥陀如来の本願を信じ、その本願が私にまで届いてくださったはたらきとしての念仏を称えることを、勧めておられたのです。
法然上人の吉水の草庵での出遇いは、親鸞聖人にとって本当に尊い、生涯忘れることのできないものでした。そのことを、親鸞聖人は、「建仁辛の酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」と記しておられます。「この年、私は、さまざまな“善い事”をすることにより人びとと共に幸せになろうという思いを捨てて、はかることのできないいのちのはたらきと、そのいのちからの問いかけを、心から信じて生きる身とさせていただきました。」という意味であります。
人びとと共に悔いのない生き方をしたいと願いつつ、他と関わることによって、自分も傷つき他をも傷つけ、ますます自分の思いの中に沈んでゆくのが私たちの日常であるように思います。他と関わる時、必ず、どこまでも「自分」というものを立て続けるのが、私たちが生きている限り、やめることのできない心のあり方ですが、親鸞聖人はその自分中心の心への、他者からの問いかけを、大切なものと感じられていました。法然上人は、その問いかけを、はかることのできないいのちからのものであると説いておられたのです。
法然上人のもとには、本当に様々な人びとが集っていました。時の関白であった九条兼実など、知識もあり、立派な人物とされていたような人びとをはじめ、源平の一の谷の合戦で、わが子と同じ年令の平敦盛の首を刎ねなくてはならなかった熊谷直実や、人を殺し財産を取ることをなりわいとし妻子を養って世を過ごしていた耳四郎という盗賊など、まさにあらゆる経験をした人びとが、一人の人間としてともに同じ場に座り聞くことができる教えとして、阿弥陀如来のご本願と、その御名を称える念仏の教えが説かれていたのです。親鸞聖人は、法然上人が、常に「浄土宗の人は愚者になりて往生す。」と説かれていたとおっしゃっています。これまで人を傷つけ続け、どんな救いからも無縁な者であると思った人こそ、阿弥陀如来の光に照らされて生きる生き方に最も近い人なのだ、と説かれていたことは、親鸞聖人にとって、今までの自分の姿、自分の求めていた仏道を指し示された教えとして、まさに自分のために説かれた教えである、と感じさせるものであったでしょう。
吉水の草庵は、年令や境遇の全く違う一人一人の人間が、阿弥陀如来の光に照らされ、ともに歩むことができることが確かに感じられる、具体的な場でした。誰よりも法然上人ご自身が、あらゆる人々と出遇い続け、人びととともに、教えに聞いておられたのです。その場の様子を、親鸞聖人は、後に、「源空光明はなたしめ門徒につねにみせしめき賢哲愚夫もえらばれず豪貴鄙賤もへだてなし」と思い起こされています。
阿弥陀如来の光は、私たちの自分中心の心の闇を照らし、私たちを本当に暖かくしてくださる、はかりないいのちのはたらきであり、それは日々出遇うあらゆる人や物事から受け続けているものであります。
現代を生きる私たちは、せっかく出遇った多くの人びとや物事を、すべて自分の都合で、良いもの悪いものというふうに分け、その都合の良いものだけに「感謝」をしてゆくという、自分中心の世界に閉じこもりがちです。また、現代の人間の欲望を認めることを前提にした社会は、そうした生き方をさらに加速させているようにも思われます。
改めて、私の自分中心の思いを超えたいのちのはたらきからの、自らのあり方に対する問いかけに耳を澄まし、いのちのはたらきを心から敬い、生きることの大切さが、思われるのであります。