ラジオ放送「東本願寺の時間」

東舘 紹見(仙台教区 善林寺)
第6話 今、いのちがあなたを生きている ― 親鸞聖人のご生涯を通して― [2006.7.]音声を聞く

おはようございます。これまで、親鸞聖人のご生涯を通して、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを考えてまいりました。今朝が、私の最後のお話しとなりました。
親鸞聖人は、ご自身の一生を尽くして、あらゆる人々とともに歩むことができるとされる仏道が、自分自身において果たして実現するのかということを確かめ続けてゆかれました。大乗仏教は、自分自身が救われてゆくということがそのまま他にとっての救いとなり、他を救うことが、そのまま自らの救いとなる、とする教えであります。このようなことは、これまでうかがってきたことからも明らかなように、私たちの自己中心的な意識の中からはどこからも起こってこないものです。私たちは、いつも、自分と他とを分け、まず自分の幸せ、自分の心地よさ、自分の救いということを願います。そして、それを時には仏教の名をさえ借りて、正当化してゆくのです。
私たちが人びととともに幸せに生きることを願いながら、人を傷つけ、自分自身も傷ついてゆく根本には、私たち自身の心の暗さということがあります。親鸞聖人がそのご生涯をかけて明らかにされた浄土真宗の生活は、そうした私たちの心の闇をはっきりと照らし出してくださるはかることのできないいのちのはたらきを、具体的な日々の生活の中でいただき、そのいのちのはたらきを心から敬い大切にして生きてゆく、すなわち「南無阿弥陀仏」と称えつつ、本当に幸せな国土、浄土に向かってともに歩みを進めてゆくことであります。
親鸞聖人は、生涯をかけて、その浄土への歩みを、縁ある人びととともに生きられました。そして、その中で、常に自分が仏教の内側に立っている、あるいは、自分の考えは正しいという自分の思いへの執われを、具体的な人や物事との出遇いを通じて、照らされ、本当にあたたかいいのちのつながりを実感してゆかれたのです。自分は間違っていない、自分は仏教をよく知っていると思っていたことこそが、実は全く反対の、仏教の外側にいることであった。自分が外にいると思っていた人こそが、実は自分に最も大切なことを教えてくださる人であった。自分自身からは起こってこようもない、こうした自覚こそは阿弥陀如来の光の具体的な姿であります。そして、こうした自分からは起こしようもない、私を支え、一人の人間として歩ませて下さっている、はかりないいのちのはたらきへの深い敬いの心こそが、浄土真宗の生活の原点でありましょう。
親鸞聖人より200年の後、まさに人びとのよりよく生きたいという欲望が、全国的な争いとなって展開した、戦国時代が幕を開けようとする時、本願寺の第8代を継がれた蓮如上人という方は、一人一人のいのちのはたらきへの深い敬いの心が開いてゆく場を、「仏法領」、ほとけさまの領分としていただき、「帰命無量寿如来南無不可思議光」、すなわち「南無阿弥陀仏」を中心とする、浄土真宗の生活の具体的な姿を、明らかにして下さいました。
現代は、交通や様々な情報の流通が盛んになり、人びとの交流はこれまでになく活発であるかに思われます。しかし、考えてみますと、それらの交流は、すべて自分の思いによって都合の良いことだけを選び、自分中心の世界をつくりあげてゆくためのもののようにも思われます。
最近、私たちが忘れてきた、「もったいない」という大切な言葉が、受け止め直されつつあります。これは、私たち人間が、あまりにも自己中心的なあり方を続けてきたことへの危機感の表れ、あるいは、はかりないいのちからの促しの声なのかもしれません。しかし、この大切な言葉も、人間にとって都合の良いものを人間の眼で選び、大切にしてゆく、ということを内容とするものならば、結局のところ、人間の欲望を正当化するための表現に過ぎないことになってしまうのではないでしょうか。宗祖親鸞聖人750回ご遠忌をお迎えするこの度こそ、今一度、私の思いを破って、私にまで届いてくださる、はかることのできないいのちとその光に、日々照らされ、いのちを賜わっている、その事実を、ともどもに大切に仰ぐ生活を始めてゆきたいと、心から願うことであります。

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