ラジオ放送「東本願寺の時間」

山口 知丈(大阪府 昭徳寺 住職)
第1話 無量寿を生きる [2006.7.]音声を聞く

おはようございます。今日から6回にわたりまして、宗祖親鸞聖人750回御遠忌のテーマであります、「今、いのちがあなたを生きている」につきまして、感じておりますことをお話させていただきたいと思います。
このたびの御遠忌テーマである「今、いのちがあなたを生きている」の中にあります、「いのち」という言葉で表現し伝えようとしているものは、ただ単に私たちの生命現象としての「いのち」ということではなく、「仏様の量り知れない大きなはたらき」を意味する「無量寿」であるとお聞きしております。
この「無量寿」という言葉は、私が属している真宗大谷派の門徒さんであるならば、「大無量寿経」あるいは「観無量寿経」によって、また真宗門徒が一番親しんでいる「正信偈」の冒頭の一句「帰命無量寿如来」によって、たいへん親しみのある言葉、教言です。
したがいまして、この「無量寿」とは、「迷いの身を照らす仏様のはたらき」を意味する「無量光」と共に、如来の名であり、如来のはたらきを表す言葉であるということ、この点をはじめにしっかりと踏まえておかなければならないと思います。
そしてそれと同時に、「帰命無量寿如来」の一句に示されますように、「無量寿」「無量光」とは、単に如来の名前や如来のはたらきを表現するにとどまらず、私たちの「信心」そのもの、すなわち、聞法を通して得られた目覚め、その目覚めのところに実現し、獲得されているものであることを、これまたしっかりと踏まえておきたいと思います。
私たちは、悩みの尽きることのない、そして苦労が必ずしも報われるとは限らない、この人生のただ中にあって、教えを聴くことを通してはじめて徹底的に自分自身を問い、聞き開くことが身に実現いたします。それは、いつも、どんな出来事においても自分の都合に立ってしか物事を考えられない、受け取れない私たちにとっては、まさに「空前絶後」の「大事件」なのです。その実現の感動を、大きなひるがえりのことを、「無量寿」「無量光」の獲得、すなわち「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」というのです。
このように尋ねてまいりますと、親鸞聖人750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」にこめられた願い、そこに「いのち」という言葉が選ばれている意味とは、「せめぎあい傷つけあう現代にあって、あなたは親鸞聖人の教えを通して無量寿を生きていますか」という強い促しに他ならないのではないでしょうか。
これらの点をしっかりと踏まえた上で、御遠忌テーマから響いてくるもの、聞こえてくるものを最大限に聞き取っていきたいと思います。
「無量寿」あるいは「いのち」という言葉を耳にするとき、わたしにはすぐに思い出される光景があります。それはもう何年も前のことですが、池田市に住んでおられた、ある女性の門徒さんとの会話です。その方はいつも毎月のお参りのときに、ご自分が今読んでおられる本のことやテレビの宗教の時間を見ての感想などをお話しになるのですが、その日は本当に待ちかねたようにお話しを始められました。なんでも、作家の五木寛之さんの講演会に行ってきたということでした。そして、講演の全体と言いますか、「話の前後は忘れましたけれども」とおっしゃって、講演の中で、五木さんが
「みなさんは、人間の一生というものをどのようにごらんになりますか。私はたとえどのような人であっても、どのような人生であっても、それは一人ひとりが大事業をなしていると思います。」
と言われたというのです。そして
「私はその五木さんの一言を聞いて、本当に感動しました。」
とおっしゃいました。
私はそのお話を聞かせていただきながら、「ああ、なるほどなあ」と思いました。と言いますのは、この方は、実は長年にわたり、難病のひとつである「膠原病」を患っておられ、普段の生活もヘルパーさんに来ていただき、買い物や外出のときは、いつも酸素ボンベを持ち歩くということを余儀なくされておられました。おそらく、生きることの重さ、自分の人生に対する疑問を人一倍感じてこられたのではないかと思います。その解くに解けない思いの中に、飛び込んできた五木さんの一言。人生の頂き方、受け取り方、そして励ましをはじめて聞いたという思いを持たれたのでしょう。それがどれほど嬉しかったか、そう思うとなんだか、こちらの胸まで熱くなってきます。
「無量寿」とは、このような「あらためて頂き直したいのち」「重いけれども、喜びのなかにあるいのち」を言うのではないかと教えられた出来事でした。

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