おはようございます。先回は、宗祖親鸞聖人750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」にあります「いのち」とは「無量寿」であることを中心にお話をさせていただきました。
ところで、私たちの「真宗聖典」の中に、「安心決定鈔」というたいへん短い、しかしながら信心を得ていくうえでは、よく親しまれた書物があります。そこに、私たちが「量り知れないはたらきを持った仏様のいのち」を意味する「無量寿」に出会っていく、帰っていく道筋とも光景ともいうべき文章が教言として記されています。それは、
帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。 |
というものです。
私は、この言葉を20歳ぐらいのときに知りました。当時は大谷大学の2回生ぐらいで、まだまだ親鸞聖人の教えをかじり始めたばかりのときでしたが、大学の授業よりも京都や大阪で開催されている親鸞聖人の教えを聞く学習会を転々と巡っていたときだけに、何か求めているものはこれだと指し示されたという感じを受けたことを、今でもよく憶えています。なかでも「すこしこざかしく自力になりて」とは、やみくもに聞法会を駆け巡り、誰よりも確かに信心が得られると思い込んでいた私にとって、グサリと突き刺さってくる言葉でした。どこまでも自分勝手な根性を問うことはなく、現実逃避のように続ける聞法。その根深い自己肯定が破られるには、まだまだ時間が必要でした。それどころか、それから20年以上経ったいまでも、いよいよ本当の自分自身の姿が見えない、自分に暗いということ、すなわち「無明」ということは、私の事実として歴然としてくるばかりです。ただ、生活の中で躓き、思わず自分の値打ちが知らされるとき、「なるほど、無明であるに違いない」と思うばかりです。
大事なことは、人は自分自身の事実として、この「無明」ということ、「安心決定鈔」ならば「こざかしい自力」に突き当たったときが、「もとの阿弥陀のいのち」へ帰るときであり「わがいのちすなわち無量寿なり」という決着が着くときであるということではないでしょうか。
「もとの阿弥陀のいのち」という教言を目にするとき、もうひとつ思い出される出来事があります。それは父親の精密検査のために、妻と共に3人で神戸大学病院に行った折のことでした。いろいろな検査をしてまわり、ちょうどレントゲン科の窓口にいたときのことです。窓口に立っていると、廊下の向こうからなにやら大きな声が段々と近づいて来ました。見ると15?16歳ぐらいの青年と少し遅れて、おかあさんらしき人がこちらに近づいて来られました。するとその青年は、私たちのいる窓口に着くなり大きな声で
「おかあちゃん」
と、母親を呼んだのです。少し障害をお持ちの方でしたが、その青年のあまりに澄んだ、そして大きな声を浴びて、私は何か心が打たれる思いがしました。なんと表現すれば良いのか、おなかの底から発せられたその声は、本当に心の底から母親を信頼していることを示しているような、そんな響きを伴っているように私には感じられたのでした。
果たして私は最近、そのような純な心で母親を呼んだことがあったか、母親を呼ぶときはいつも何か持て余したことをお願いしたり、愚痴や文句であったり、魂胆あってのことが常なのです。その私に響いてきた青年の声は、背中から水を浴びせかけられたように感じられました。かつて「涅槃経」に「慙愧」そして「無慙愧」という言葉があることを大学で習いました。
「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。 |
これらの言葉を知識としては知っていましたが、このとき初めて身をもって「慙愧」「無慙愧」ということを青年から教えていただきました。そして、またひとつ「無明」の身であることを知らされ「もとの阿弥陀のいのち」の在りかを教えていただきました。