おはようございます。先回は「もとの阿弥陀のいのち」ということを、いのちの本来的な在り方と捉え、確かな宗教的信念を獲得された人として知られる明治の仏教者である清沢満之先生の「万物一体の真理」という教えについて尋ねてみました。
この清沢満之先生が書き残されたメモのなかに次のような言葉があります。
親は子の親なり。子は親の子なり。絶対の親ありや、絶対の子ありや。 |
これは後に「須らく相対の理を観ずべし」と題された、清沢先生のたくさんのメモのひとつです。私たちが親子関係で躓くときの問題点を実によく教えてくださっています。清沢先生がおっしゃるように親というけれどもそれは子どもを賜って初めて親となるのです。また、どんなに立派な子どもと言えども、親あってこそ初めてその存在があるのです。どれだけ苦労して子どもを育てていてもだからと言って子どもを束縛してしまうことはできません。誰もがわかっているはずで誰もが忘れてしまっている事実、それを清沢先生は教えてくださっています。
先回、子どもは大人にとって、いのちの本来的な在り方を呼び覚ましてくれる存在だということを申し上げましたが、そのきっかけとなったささやかな出来事を紹介させていただきたいと思います。うちの子どもがまだ4?5歳ぐらいのときのことでした。女の子なので、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、事あるごとに大きな、そして甲高い声で「キーキー」叫ぶのですが、あるとき2人でトランプをして娘が負けたのです。そうしたら「キーキー、ギャーギャー」と悔しがって泣き出したのです。うるさくてたまらなかったのですが、どのようになだめても泣き止みませんでした。仕様がなく、しばらくその大きな甲高い声に身をさらしていたとき、私の中でひとつの思いが湧き出て来ました。それは「ああ、最近自分はこんなに一生懸命になって、物事に取り組んだことがあっただろうか、いや、ないなあ」という反省です。そう気がつくと、娘の大きな声は、実はそのような私の在り方、生き方、安逸をむさぼるというか、知らず知らずのうちに自己保身しながら生きてしまっていることを教えてくれているのだと思わずにはおれませんでした。
さらにもうひとつ、子どもを通してわが身を学び直すということが、どれほど大きな示唆であるかを教えてくれた新聞の記事を紹介させていただきます。それは「毎日新聞」の「女の気持ち」という投書欄に、2003年9月6日に掲載されていた、京都市上京区の川嶋智子さん書かれたもので、タイトルは「価値あるもの」です。内容を少しかいつまんでお話させていただきます。
舞台は地蔵盆のビンゴ大会。4歳のちーちゃんが、真っ先に当たりました。
ところが数ある豪華な賞品のなかから、ちーちゃんが選んだのはなんと「ゴム風船」だったのでした。おかあさんは「どうしてもっと良いものを選ばないの」と思わず言ってしまいますが、ちーちゃんは「これがいい」とつぶやきました。するとそこへお兄ちゃんたちが駆け寄り、「ちーちゃん、よかったなあ。自分の好きなもの、一番にもらえて。」と声をかけてきたのだそうです。その瞬間、おかあさんは「自分がものすごく恥ずかしく思えた」と述べられ、次のように書き付けられておられます。
ふだん、お金だけで判断してはいけないとか、欲張りすぎてはダメとかいってるくせに、まさしく私自身は金銭的な価値判断をしてしまっている。子どもの価値判断を無視して自分の価値判断を押し付けようとしてしまった。お地蔵さん、ごめんなさい。子どもから教えられた小さな出来事でした。 |
いかがでしょうか。冒頭に紹介させていただいた清沢先生の「絶対の親ありや。」という問いかけが聞こえてくるような、そんな気がいたします。
*引用文には歴史的仮名遣を現代仮名遣いに改めた箇所があります。