おはようございます。先回は、「安心決定鈔」の中にある「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」という言葉についてお話をさせていただきました。私たちの日ごろの生き方、いのちのあり方を照らし出してくれる得がたい一言、「真理の一言」だと思います。
人間のいのちの本来的なあり方を、私たちに教えてくれる貴重な示唆と感じられますものとして、確かな宗教的信念で知られる明治の仏教者、清沢満之先生の言葉である「万物一体の真理」があります。簡単に言ってしまえば、「すべてのものはつながっている」ということなのですが、常に「自分の考えが正しい」と思っている私たちには、なかなか頷けない言葉です。清沢先生は、このことを別の表現で教えて下さっています。
吾人の世に在るや、決して単孤独存するものにあらず、常に外他の人物と相待ちて存立す。 「自由と服従との双運」より |
つまり、「私たちがこの世を生きるということは、決してたった一人で独立して生きているのではなく、いつも必ず他の人と関係し合い、支えあって生きているものなのです」ということを述べておられるのです。
また別の場面では
自己を知るというは、決して外物を離れたる自己を知るというにあらず、常に外物と相関係して離れざる自己を知るをいうなり。蓋し外物を離れたる自己は、これ一個の妄想にして、全くその実なきものなり。 「本位本分の自覚」より |
とおっしゃっています。これまたたいへん硬い表現ですが、要するに「自分を知るということは、人は本来つながって生きているということを知ることである。しかし、それを忘れて自分一人のことだけを考え、優先して生きようとすることは、それは単なる思い込みの中を生きているだけでしかないのだ」ということです。
「人は、本来つながって生きている」ということ、これは当たり前のことなのですが、実際は、さあどうでしょうか。親子、夫婦、友人関係など、自分中心に振る舞い、人を振り回してはいないでしょうか。
特に現代の日本は、自我中心的なあり方を省みる機会が失われ、あろうことか日常の不満をわが子という小さな命に向ける「幼児虐待」という、たいへん痛ましい事件が後を絶ちません。そこから、「母性喪失」、「父性喪失」という指摘がなされ、親子のつながりが失われた、考えられない事態となっています。
私は、やはり子どもという存在は、「もとの阿弥陀のいのち」の在りかを私たち大人に教えてくれる、確かな契機だと思うのです。忘れていたいのちの感覚、生きていることを手放しで喜ぶ方法、そして母性・父性までも子どもたちは教えてくれます。
テレビのシャンプーのコマーシャルで、「外から帰ってきた子どもの頭の匂いで、その日どれだけ遊んだかがわかるんです。」というシーンがありましたが、あれは完全に子どもによって父性が呼び覚まされている場面だと思います。
また先日、作家の宮本輝さんが書かれた「幻の光」という作品の中でも、主人公の女性が再婚のために、尼崎から奥能登の曽々木という海辺の街へ行き、不安な気持ちで一杯であるときに、これから新しく親子となる女の子によって、ひとつのきっかけがもたらされます。その一節を読んでみます。
友子ちゃんの傍へ行き、 「きょうからわたしがお母ちゃんやで」 と言うた。そのとき、ぱっと顔をあげて笑い返した友子ちゃんの、たしかに女の子に違いない匂いを鼻先に嗅いだ瞬間、わたしはそれまで頼りなげに丸めていた自分の気持ちを、しゃきっとまっすぐに伸ばすことができたんでした。 |
小説の中の一場面ではありますが、たとえ血はつながっていなくても、母性が呼び覚まされて「つながりを生きる」ことがきっと始まっていく、と確信させる場面でした。
*引用文には歴史的仮名遣を現代仮名遣いに改めた箇所があります。