ラジオ放送「東本願寺の時間」

高名 和丸(青森県 正行寺)
第1話 出遇わずにおれないいのち 無上尊 その1 [2007.4.]音声を聞く

おはようございます。
今日から6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマについて、「出遇わずにおれないいのち」という視点から、お話しさせていただきます。
以前、ミヒャエル・エンデという作家の「モモ」という本がよく読まれたことがありました。大島かおりさんが訳した本です。うちでも、当時小学生だった息子に買ったところ、「面白い」といって読んでおりました。最近私自身も読んでみて、面白かったです。主人公のモモは、ある都市に住んでいるみよりのない女の子です。ちりちりの髪を伸ばして、長いスカートをはいて、はだしで町を歩きます。このモモのところに、いろんな人がやってきて、元気になって、明るくなって帰ります。なぜでしょうか。モモがしていることは、相手の話を聞く、それだけです。でもそれだけで、なぜか、みんなが明るくなるのです。例えばある男の人がやってきました。その男の人は「生きていようと死んでしまおうと、どうって違いはありゃしない。」そんな風に自分のことを感覚していました。けれど、そういう考えをモモにしゃべっているうちに、不思議なことに自分の考えがまちがっていたことがわかってきます。そして、「いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ。」と気づいていきます。どうしてそんなことが起こるのでしょうか。男の人は、先ほども言ったように、「生きていようと死んでしまおうと、どうって違いはありゃしない。」そんな風に自分のことを感覚していました。けれどもモモは、その人のことを、その人自身と同じように感覚していたわけではないと思います。モモはきっと、その人のことを、この世の中でひとりしかいない、たいせつな存在、と感覚していたのでしょう。その人自身の感覚よりももっと深い感覚です。だからその人は、モモに話しているうちに、自分がまちがっていたことに気づいていったのでしょう。
ところで、仏さまといわれる、いのちの本当の姿に目覚めた人は、私たちのことをどう感覚しているのでしょう。「生きていようと死んでしまおうと、どうって違いはない、そんな人など、ひとりもいない」これが仏さまの感覚でしょう。仏さまは、「どの一人も、この世の中でひとりしかいない、この世になくてはならない、大切な存在なんだ」そう感覚してわたしたちのことを見ておられます。仏さまは「十方衆生」と呼びかけておられます。十方とは、十の方角です。四方八方の八方に、上と下を加えた、十の方角です。これは、十方のほかにも方角がある中での十方ではなく、十方のほかにもう方角はない、という意味をもつ十方です。簡単に言うと、あらゆるところです。いかなるところにいる、いかなる存在も、この世になくてはならない、たいせつな存在なんだ、と見つめておられるのです。
そういう仏さまの感覚は、人間にとって、光という意味をもちます。光に出遇うとき、わたしたちが、いつも自分のおもいで、くらべて優劣を計って、それにとらわれている姿が照らし出されます。光に出遇うということは、わたしたちの闇を言い当てられるということです。
さて、親鸞さまは「同朋」と言っておられます。「同朋」とは簡単に言うと「ともだち」ということです。この同朋という言葉の根源になっているのは、「十方衆生」と呼びかける仏さまの心ではないでしょうか。「同朋」は、単にともだちという意味をもつ名詞、ということではなく、「すべての人が同朋であると目覚めていく」という動詞としてはたらいていくような言葉です。人間の仲間づくりは仲間はずれをつくりますが、「同朋」は、仏法を喜ぶ人も、仏法に関心がない人も、仏法をそしる人も、すべての人が同朋であると目覚めていく言葉です。仏さまの「いかなる存在も、この世になくてはならない、たいせつな存在だ」という感覚を根源にした言葉だから、人間のおもいを破っていくことができる、それが同朋という言葉ではないでしょうか。

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