おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマについて、「出遇わずにおれないいのち」という視点から、お話しさせていただきます。
大無量寿経というお経に、「世において無上尊となるべし」(真宗聖典2頁)という言葉が説かれます。「無上尊」とは「この上なく尊い」ということです。この言葉は、仏さまといわれる、いのちの本当の姿に目覚めた人が、「この世に生を受けるとき誰もがあげる産声」がもつ深い意味を明らかにしてくださっている言葉です。人と生まれる、そのいのちとは、「この上なく尊い」「無上尊」と見出されるべきいのちである、ということです。
しかしそういわれましても、わたしたちには、「誰もがあげる産声」ということと「この上なく尊い」ということを結びつけるのは無理があるのではないか、という疑問がおこるのではないでしょうか。わたしたちは、くらべて優劣を計る心がいつもはたらいていますから、「この上なく尊い」といわれると、「きわめて少数の、ぬきんでてすぐれたもの」を思い描きます。例えば、ここに100人の人がいるとして、「この上なく尊い」といえる人は何人か、と問われると、「この上なくと言うのだから、一人だけだろう」とまず考えます。「しかし、テストの満点がひとりとは限らないし、スポーツでも、一着が同タイムということもあるし、それにしても、まあ100人中ほんの一握りだろう」と考えます。それが、わたしたちが普通に考える考え方です。ですから、「誰もがあげる産声」ということと「この上なく尊い」ということとは結びつかないと考えるわけです。けれども、そんなわたしたちの日ごろの心から解き放たれたような言葉に出遇うことがあります。
ある大人の人が、言葉がようやくしっかり言えるようになった子どもに尋ねました。「あなたはお父さんとお母さんと、どっちのほうが大好きなの」。お父さんとお母さんと、比べてどちらのほうが大好きか、という質問です。子どもは答えました。「お父さん大好き。お母さん大好き」。問いとは異質の答えです。「お父さんはお父さんであることにおいて、比べることを超えて大好き。お母さんはお母さんであることにおいて、比べることを超えて大好き」こう答えているのです。
誰もが知っている「チューリップ」という童謡に、「どの花見てもきれいだな」という一節があります。わたしたちは、比べて優劣をつける世界しか見えなくなっていますから、例えば「赤はとってもきれいだ」と言うと、次には「白はまあまあきれいだ」と言い、そして「黄色はたいしたことない」と言う、そういう世界に生きています。しかし、このうたは、「どの花見てもきれいだな」と歌っています。
仏さまといわれる、いのちの本当の姿に目覚めた人は、世界の見え方がわたしたちとは違うのです。そういうことであらためて「無上尊」という言葉を尋ねますと、「この上なく尊い」とは比べて尊いということではないのです。「この上なく尊い」とは、くらべることを超えて尊いという事なのです。代理がきかない、かけがえの無い、そして遇いがたい、「わたし」として生まれてきたいのち。「世において無上尊となるべし」とは、「あなたはあなたであることにおいて尊い」という世界を語られた言葉なのでしょう。大無量寿経では、100人の人がいると100人が、無上尊のいのちだと見出しているのでありましょう。
仏さまの言葉は、人間にとって、光という意味をもちます。光に出遇って初めて、わたしたちが、いつも自分のおもいで、くらべて優劣を計って、それにとらわれて、狭苦しい世界に生きている、ということが照らし出されます。仏さまの言葉に出遇う、仏さまの言葉を聞いていくということは、いのちの本当の姿を教えられ、そして、親鸞さまが「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて」(真宗聖典545頁)といわれるような、自らの姿を言い当てられていくということでありましょう。