ラジオ放送「東本願寺の時間」

高名 和丸(青森県 正行寺)
第6話 出遇わずにおれないいのち 人間成就 その3 [2007.5.]音声を聞く

おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマについて、「出遇わずにおれないいのち」という視点から、お話ししてきました。今回は第6回目、最終回となりました。
3年前の夏、中国の仏教寺院を訪ねるツアーに参加しました。親鸞さまに大きな影響をもたらした、曇鸞大師(どんらんだいし)という方のゆかりのお寺、玄中寺(げんちゅうじ)に、ぜひ行きたかったのです。中国を訪れるのは初めてでした。
途中、中国仏教の聖地といわれる、五台山(ごだいさん)を訪れました。京都の比叡山よりはるかに広大な山岳地に、たくさんのお寺があります。朝、五台山のホテルを出て、ある山の上にあるお寺に行くために、ロープウェーにのりました。下に、お参りの道を徒歩で登る人、馬に乗って登る人が大勢見えました。そのなかに、五体投地(ごたいとうち)を繰り返しながら登っている人たちがいました。五体投地とは、両ひざ、両ひじ、頭を地につけて礼拝する礼拝の仕方です。お寺につくと、そこにも五体投地をする人がたくさんいました。僧侶の服装の人もいれば、一般の人もおり、ジーンズにティーシャツの若い女性もいます。はじめてみる光景で、その人たちをずーっと見ていたら、胸が熱くなりました。曇鸞大師はじめ、多くの道を求める人々を生み出した中国の大地、そこに生きる人たちの、礼拝する姿。お経に、仏さまが「十方衆生」と呼びかけておられる、ということが説かれます。十方とは、十の方角です。これは、十方のほかにも方角がある中での十方ではなく、十方のほかにもう方角はない、という意味をもつ十方です。いかなるところにいる、いかなる存在をも、尽くしているという意味です。「十方衆生」という言葉は、単に言葉として説かれているのではなく、こういう人たち一人一人を、出遇わずにおれない人として見出してきた、生きた言葉なのだと感じました。
また、昨年、初めてインドを訪れました。お釈迦さまのお生まれになったところ、さとりを開かれたところ、初めて法を説かれたところ、お亡くなりになったところなどを訪れました。亡くなられたところに建つお寺に、お亡くなりになった姿をあらわす、横たわったお釈迦さまの像があります。そこにおまいりしていた女性たちが、手を合わせているすがたが、とても心に残りました。日本とは服装も違う女性たちが、横すわりで手を合わせているすがた。仏さまの教えは、国の違いや民族の違いを超えて、人間にまことの依りどころを明らかにしてくれる、と感じました。
「今、いのちがあなたを生きている」といわれている、わたしたちのこのいのちは、ああしたい、こうしたいといっているその底に、もっと深い、もっと根源的な、生まれてからというよりも、人間として生まれたということがすでに宿しているような、欲する心を持っているのではないでしょうか。それはまた、日本であるとか、中国であるとか、インドであるとか、昔であるとか、現代であるとか、という違いをも超えているような欲する心です。曇鸞大師は、仏さまの教えは、時代に限定されるようなものではない、と教えておられます。(「経とは常なり」浄土論註)自分を本当に突き動かすものは何か。それは民族や時代を超えた、「生まれたことはむなしくなかったといえる世界に出遇いたい」そう欲する心ではないでしょうか。
仏さまといわれる、いのちの本当の姿に目覚めた人は、そのような深い欲する心とは、「まことに出遇いたい」ということであると見出されました。もう一歩踏み込めば、「まことに帰する自己に出遇いたい」、この場合の帰するは帰るという字のほうですが、「まことに帰する自己に出遇いたい」ということであることを見極められました。そしてそこから、「十方衆生」と呼びかけ、「まことの国に来たれ」と呼びかけています。仏さまに礼拝するということ、仏さまに手を合わせるということは、「有限の今において、永遠のまことに帰する」、ということです。そこに、「生まれたことはむなしくなかったといえる世界に出遇いたい」と欲する心が、感動し成就することのできる世界が開かれています。そこに人間成就という意味があります。

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