おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマについて、「出遇わずにおれないいのち」という視点から、お話しさせていただきます。
黒沢明監督の「生きる」という映画があります。1952年、わたしの生まれた年に製作された、モノクロームの映画です。主人公は市役所で市民課長を勤めている男性です。机に座って書類にはんこを押す日常を淡々と送っています。あるとき、胃がんで、あと数ヶ月しか生きられないことがわかり、「生きて死にたい」と欲します。課長は、以前から要望があった、児童公園のことを思い出します。「そうか、仕事か」と言って彼は立ち上がります。そのとき、映画ではパッピーバースデートゥーユーの歌が流れます。翌日から課長は各課を説得してまわり、追い風が吹いたこともあり、とうとう児童公園が完成します。完成した公園で、課長はブランコに乗り、歌を口ずさみ、やがて亡くなります。
「生きて死にたい」、これは、自分を本当に突き動かすものは何か、ということを深く考えさせられる一言です。
ある学習会で、「幸福になりたい」という意見が出ました。参加している皆さんが、「わたしもそうだ」と同調しました。進行役の人が、「具体的にどういうことが幸福ということでしょうか」と尋ねたら、色々な声が出ました。健康でなければならない。自分だけ健康でもだめだ。まわりのみんなも健康でなければ。でも、健康だけでなく、お金もないと困る。色々とにぎやかに声が出ました。けれども、よく考えてみると、もし仮に、それらの条件がすべて整ったとしても、「その幸福がいつ崩れていくだろうか」、というおびえから逃れることはできません。「砂上の楼閣」の性質なのです。「幸福になりたい」、ということより深い、「生まれたことはむなしくなかったといえる世界に出遇いたい」、と欲する心に出遇う、そこではじめて、自分を本当に突き動かすものに出遇うのでしょう。
欲するということ。欲ということ。欲といえばすぐ、むさぼる心、汚(よご)れた心、と連想するかもしれませんが、それは貪りという性質の欲です。貪りの欲、貪欲(とんよく)は、煩悩といわれる、人間の迷いの心、汚れた心です。けれども、貪りという言葉のつかない、欲という言葉それ自体は、汚れた心に限定されない、広い意味をもっています。「楽(ねが)いもとめる」というところにはたらく心の作用が欲です。自分を本当に突き動かすもの、ということに関る心です。
わたしたちは、日ごろ、ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい、と追い求めながら生きています。それらは、生まれてから、色々なものを見たり聞いたりして、ああしたい、こうしたいといっているのでしょう。けれどもその底に、もっと深い、もっと根源的な、生まれてからというよりも、人間として生まれたということがすでに欲しているような、要求を持っているのではないでしょうか。楽(ねが)いもとめる心を持っているのではないでしょうか。不安とかむなしさということも、根っこをたどれば、そのような要求とつながっているのではないでしょうか。
そういう要求に出遇いたい。そういう欲する心に出遇い、立ち上がりたい。一回きりの人生だからこそ出遇わずにおれない。それが、「生きて死にたい」という一言ではないでしょうか。
映画では、「そうか、仕事か」と立ち上がります。彼が見定めたことは、仕事です。具体的には児童公園をつくるという仕事です。しかしその彼は、「生きて死にたい」という要求それ自体に立ち上がったのではないでしょうか。「生まれたことはむなしくなかったといえる世界に出遇いたい」、と欲する心に出遇い、立ち上がる、そこに人間成就という意味があります。
欲する心に出遇い、立ち上がる、それは人間が誕生するという意味を持つ、そう映画は語っているのだと思います。誕生とは新しい身体を獲得するということです。それを仏教の言葉では「往生」といいます。