ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 理(兵庫県光照寺)
第2話 『自分』に閉ざされたいのち [2007.8.]音声を聞く

おはようございます。宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、ひごろ感じていることを話させていただいています。きょうは第2回目です。
真宗大谷派の『同朋新聞』で知った、斉藤勇輝という方のことです。お父さんを自殺によって失った彼は、同じ苦しみ、悲しみを体験した人たちと共に『自殺って言えなかった』と題する本を出されました。その本を読みました。お互いに、悲しみ、苦しみを乗り越えていった過程が記されてありました。私は、斉藤さんのお話に注目しました。
彼が中学2年の時、お父さんが自殺された。しかし、家族みんなは、お父さんの死を、「自殺」と信じたくないし、ほかの誰にも言えないし、お互いに、そのことに触れることさえ出来なくなってしまったそうです。そんな毎日が続く中で、ある育英資金をもらって、学校へは通ったそうです。その関係で、夏休みに、同じ様な境遇の人たちが集うある会に参加したそうです。
自己紹介をするときになって、彼はお父さんの死について、正直に「自殺って言えなかった」。それどころか「交通事故で死んだ」と、うそをついてしまったそうです。その時、その彼に、ある先輩らしい人が「誰でも言えない事がある。言えないのを、無理して言わなくていい」と、声を掛けてくれたそうです。そう声を掛けてもらった彼は、このままではいけない、ほんとうのことを言わないといけない、と、そう感じて、もうその集いが終わろうとしていたその時、自分からみんなに向かって、「ほんとうのことを聞いてほしい」と、お父さんの自殺を、初めて、話すことができたそうです。肩を抱き合って、泣いたそうです。
私は、およそ、以上のような事が彼のうえにおこったことを、手記や新聞で知り、心を動かされました。
斉藤さんが、家族の方みなさんが苦しんでおられたのは、いったい何だったのでしょうか?
世間の人々の偏見や誤解の中で、お一人お一人が、これからどう生きていったらいいのか、そのことに苦しんでおられたのでしょうか?あるいは、お父さんの「自殺」ということをどうしても信じられなくて、お一人お一人が、そのために苦しんでおられたのでしょうか?
斉藤さんご自身は、「誰でも、言えないことがある。言えないのを、無理して言わなくてもいい」と、声を掛けてくれる人がいて、心が開けて、言うことが出来た。そこに、何に苦しんでおられたかが明らかになっているのではないでしょうか。
自殺って言えない、その自分に苦しんでおられたのではないでしょうか。自分に苦しんでおられるから、自分ではどうにもできないのです。かえって、どうにかしようとするほど、苦しくなるのです。
言えないことは誰にでもあることを気づかせて、無理に言わなくてもいいと受けとめてくれる人がいて、初めて、言っても、偏見や誤解されることのない場所が開かれていると感じて、心が開けて、言うことが出来たのではないでしょうか。
私たちはお互いに、「自分」とか「自分たち」、「私」とか「私たち」という思いを中心に、拠り所にして生き合っていることからおこる、知らず知らずに心が閉ざされていく生き方になっていることに、したがってまた、いきいきと生きられない生き方になっていることに、一度立ち止まらなければならないことを、斉藤さんが苦しまれたことは物語っているように思います。
「今、いのちがあなたを生きている」というこのテーマは、その「自分」・「私」という思いを、気づかないうちに、それを中心にし、拠り所にして生きている以上、決して響かないでしょう。むしろ、変な日本語だ、という風にしか感じられないでしょう。

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