ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 理(兵庫県光照寺)
第3話 教えのいのち [2007.8.]音声を聞く

おはようございます。宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、ひごろ感じていることをお話させていただいています。今回は3回目です。
突然、奥さんを交通事故で亡くされたKさんから、葬儀をお願いされて、執り行わせていただいた時のことでした。奥さんは、自宅のあるマンションの入り口手前で、大型のバイクに撥ねられ、ほとんど即死状態だったそうです。Kさんが自宅から駆け付けた時、そのバイクの青年が、「本当にすみません。取り返しのつかないことをしてしまいました。ごめんなさい。」と、何度も頭を下げて謝ったそうです。その青年の声を耳にしながら、とにかく一刻も早く病院へと、救急車に乗り込んだそうです。しかし、途中で心臓停止になったそうです。ふだんは夫婦二人だけの生活で、90歳になる奥さんのお母さんが、直ぐ近くに住んでおられます。
Kさんは、自分の頭の中が真っ白になってしまって、そのお母さんに何と言っていいものか、迷いながら、「交通事故で死んだんだ」と伝えると、お母さんが「今、何言うた!もういっぺん言ってみ!」と聞き返すので、もう一度繰り返した。お母さんはビックリした様子でKさんを睨みつけていたが、気を取り直して「誰かを怪我させたんか?」と聞くので、Kさんが「いや、それは無い」と応えた。「そうか」とひとこと言ったあとは黙ってしまった。Kさんは、お母さんが、今、自分の娘が死んだというのに、もしかして、他人を傷つけたのではないかと、それを心配していたようだったのに、胸を突かれたそうです。
そのKさんが告別式で、ひとしきり奥さんの近況等を語られてから、およそ次のように言われました。「今の時代は、車社会で、私たち夫婦も車に乗っていました。お互いに、いつ、被害者になるか加害者になるかわかりません。相手の方は、まだお若い。どうか、早く立ち直ってください。」
相手の青年のことを思って心配しておられる言葉に、みんなが、顔を上げてごKさんのほうを見た。涙ぐんでおられるようだが、落ち着いておられた。私は直ぐに、相手を憎む気持ちが無い訳ではないだろうが、なかなか言えないことをおっしゃったなあ、と思いました。お骨を持ってお参りに来られたとき、率直にお尋ねしてみましたところ、Kさんは、「自分でも、なぜあんなふうに言ったのか、説明できないが、思わず言っていたんです。」と応えられました。再度、初七日にお尋ねしたところ、「まず、相手の青年が、直ぐに謝罪してきたことと、それと、お母さんの対応に、胸を突かれたから、あんな言葉が出たんだと思います。」ということでした。
また、最近、聞いたことですが、子どもたちの間で起こるいじめについて、保護者たちの間で、我が子が加害者になっていないかを心配する方たちが多くなっているということでした。これは、どういうことなのでしょうか。Kさんの胸を突いたお母さんの言葉は、時代や世の中を反映しているのかもしれないとも思いますが、他人に傷つけられるよりも、他人を傷つけることこそ、それはしてはならないとする考えが身についていたことは、時代や世の中を超えた、もっと深いところに根ざしているのではないかと思うのです。
真宗大谷派が出している雑誌『真宗』2007年3月号に、九州大谷短期大学学長・古田和弘先生は、全戦没者追弔法会での講演の要旨を載せておられます。その一部を解説を交えながら引用させていただきます。

いかなる生存も、生・老・病・死(生きること、老いること、病気になること、死ぬこと)は避けられないと教えられています。
この教えによれば、「死」は、「生」のなかに最初から含まれているのです。
「死」を必然(必ずそうなるということ)として含んだものを「生」というのです。
けれども、「殺」(ころすこと)は「生」の必然ではありません。
ですから、「殺してはならぬ。殺させてはならぬ」と教えられているのです。
なぜ殺してはならないのか、なぜ殺させてはならないのか、それは、命だからです。
命だから、殺してはいけないのです。殺させてはならないのです。

このように述べておられます。私は、この教えが、徹底してはいないけれども、伝えられ、伝わっているからではないのだろうかと思ったのです。そういう教えに根ざしていると受けとめたとき、テーマの「今、いのちがあなたを生きている」という、「いのち」は、教えの「いのち」と受けとめていいのではないでしょうか。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回