ラジオ放送「東本願寺の時間」

池田 理(兵庫県光照寺)
第4話 いのちは誰のものか [2007.9.]音声を聞く

おはようございます。宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、日頃感じていることを話させていただきます。きょうは4回目です。
私が住職となってすぐにであった、あるできごとについてお話します。それは、Sさんご夫婦の娘さんが、まだ幼いわが子を残して、自身のいのちを絶ってしまったという、悲しい出来事でした。Sさんのご家族は、ごく親しい方だけに来ていただいくことを望んでおられたようですが、通夜には、会場に入りきれないほど、多くの友人が集まってこられました。私は、娘さんのことはもちろん、ご家族のことは何も知りませんでしたが、その通夜の様子から、何か純粋な、熱いものを感じました。
ご自分を責め続けておられるご夫婦に、私は妻と2人で、何度かお話を聞かせていただくようになりました。ご夫婦からお聞きしたことですが、娘さんは、その日、幼いわが子をご夫婦に預けて、その後、一人になってからの行動だったそうです。
そのことをお聞きしてから、私はある言葉を思い起こしていました。それは「すべていのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではないのだ。」というものでした。
この言葉は、以前、東本願寺の学校・大谷専修学院の院長であった、今は亡き信國淳先生から教えていただいたお釈迦様についての話の中に出てきます。その話は次のようなものでした。
ある日、少年のお釈迦様が、従弟の提婆と一緒に森に遊びに行った。ところで提婆は森の上を飛んでいる白鳥を見つけ、弓で射落とした。2人の少年は獲物を手に入れようと駆け出した。そしてお釈迦様の方が早く見つけ、傷つき喘いでいる白鳥を抱き上げた。そこへ提婆が来て、射落とした自分のものだから返せと迫る。お釈迦さまは、先に見つけたのだから自分のものだと、譲らない。事の決着は、国中の賢者に委ねられたがまとまらない。そのとき、一人の年老いた賢者がいった言葉、それが、先ほどの言葉であったというわけです。
この話について信國先生は
「誰にでもすぐ判るように、私どもの生命というものが、一羽の白鳥によって表されています。そしてその白鳥を釈迦と提婆の2少年が奪い合うというのは、同じ一つの生命を我がものだと主張しあう2人の人間のあることを示しています。」と言われています。
そしてまた、一人の賢者のあの言葉については、
「いのちは、それを愛するものにおいてのみ、いのち自身をのびのびと、自由に生かすことが出来るからであり、それ自身の生きる喜びに出遭うことになるからであるに違いないと思われます。ところで私ども人間は、自分の生きる命を、それぞれ自分のものだと思っています。」
と、このように言われています。
ここで先生は、まず、私たちの誰もが思い込んでいる独断、つまり「自分の生きるそのいのちを自分のものだと独断している」事実を言われたのだと思います。そうしてこの独断に基づいて生きていながら、しかも独断している事実に気がつかないままに、生きる喜びを求めているのだと言われているのでしょう。私自身を知らされた言葉でした。
そこで、以上のように、お話を思い起こしながら、私は考えてみたのです。
Sさんご夫婦の娘さんは、わが子をいっそ道連れにと思って、そうしようとさえしたことがあったのではないでしょうか。そういうことがあったからこそ、ご両親に預けたのではないでしょうか。わが子を愛したいからこそ、これから、この子どもたちが、生きる喜びを求めようとすることだけは奪ってはならない。母である私も、それを求めてきたように。今は、この子たちのいのちだけは傷つけないように、両親に預けようと。こんな思いの中で、とった行動だったのではなかったのだろうか?
こんな私の勝手な憶測を、Sさんご夫婦にも子どもたちにも聞いてもらいました。それは、子どもさんたちがお母さんのことをどのように受け止めていくかは、もちろん分かりませんが、自分たちが、のびのびと生きたいという生きる喜びを求めるとき、悩みつつ、お母さんをも貫くいのちそれ自身の願いに、気付くかもしれないと、思ったからです。そして、お母さんと同じいのちがあなたを生きているんだよって、声なき声を感じるかもしれないと思ったからです。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回