ラジオ放送「東本願寺の時間」

多田 孝圓(大阪府 圓乗寺)
第2話 死すべきいのち [2007.9.]音声を聞く

おはようございます。今朝も前回に続いて、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマである、"今、いのちがあなたを生きている"という呼びかけについて、どのように聞かせてもらっているのかをお話させていただきます。
前回は、今、自分がここにいるということは「私のいのち」でなしに、「いのちの私」としてある、ということをお話をしました。両親を縁として、いのちをいただいたのですが、此の世に生を享けて、私は今年で66歳です。これまでどれほどの食べ物をいただいてきたでしょうか。人間は自らがいただいているのちを他に与えないで、すべて他のいのちをもらっているのです。私たちは食前に合掌して、「いただきます」と言いますのは、「あなたのいのちをいただきます」ということなのです。他のいのちをもらわなければ、自らのいのちを保つことができないのが事実です。そこに自らの生は、絶対の矛盾のなかにあり、人間そのものが罪業性であります。罪業とは罪をつくるということです。
身の事実としてあるいのちについて、お話をしておりますが、いのちのありがたさ、尊さということについて、自らが本当に頷いているかどうかを問えば、誠にお恥ずかしいことであり、元気であればあたりまえとして見過ごし、身体の具合が悪くなれば愚痴が出てしまいます。
この身にいただいているいのちは、1回限りのいのちであり、また若いころに戻りたいと思ってもできないことであり、誰にも代わってもらうことができないのです。またいつ終わるかもわからないいのちをいただいているのです。このいつ終わるかもわからないということがありがたいですね。これも仏さまのお慈悲だと思います。
「生は偶然、死は必然、死の縁は無量」といわれています。偶然とはたまたま、必然とは必ず、無量とは限りがないことです。今日私がいのちをいただいているということは、前回おはなしをしました様々なご縁が整って今、私があるということです。偶然なのです。死は必然です。ところが自分の思いは、逆であって、生は必然であり、死は偶然、たまたまと思ってしまうのです。
そして、死の原因は、がんの病気とか、交通事故と思ってしまいますが、それは縁なのです。死の原因は生まれてきたからです。私たちは「オギャー」と生まれた時から、「死すべきいのち」を生きているのです。
私たちは、日々過ごしておりますが、そこは安心と安全を求めて暮らしていると思います。年金のことがどうなるのか。介護保険のこと、自分の老後がどうなるのか。それは私の「生活」という問題が大きく一つあります。そしてもう一つは、自分の思いでいかに力を尽くしても渡ることのできない問題があります。世の中には世渡りの上手な人もおられますが、どうしても自分の思いやはからいでは解決できない問題があります。難しく言えば、「存在」ということですが、「いのち」という問題です。
先日、あるご門徒さんがご法事を勤められました。その折、ご親戚のある年配の男の人からお尋ねがありました。「定年で会社を辞めてから大分なりますが、子どもたちも一応落ち着いてくれて、今のところ心配がありませんが、自分がだんだん歳をとり、身体の具合も悪くなり、そしてこのいのちが終わるときがくる。その死すべきいのちをどのように迎えたらいいのでしょうか」ということでした。
誠に尊いお尋ねでありまして、蓮如上人は「後生の一大事」「生死の一大事」として示されておられますが、人間として生まれた本当の意味を見出すことです。そのことを明らかにすることが深く願われているのです。それは、人間の思いや考えでもっていくら求めても明らかにならず、自分で自分を助けることができないのであります。仏法に出遇うことにより、はじめて「死すべきいのち」を聞かせていただくのであります。

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