おはようございます。今朝も前回に続いて、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマである"今、いのちがあなたを生きている"という呼びかけについて、どのように聞かせてもらっているのかをお話させていただきます。
前回は、世の中、世間のものさしでは、「老・病・死」ということ、歳を取り、病となり、死を迎えるということを、良くないこととして、避けてしまっていることをお話しました。それはこの身、この身体は、「老・病・死」をそのまま受け入れているのですが、私の思いが、それを拒んでいるわけです。この身体は、限りあるものです。長生きをされる人、また歳若くして亡くなる人さまざまでありますが、いのちの願いは、その人の寿命の長い短いで違いがでるのではありません。すべての人に、人間として生まれたことの意味を見いだし、私が私でよかったと本当に喜ぶことができるように願われているのです。
今から44年前、22歳で亡くなられ、著書『若きいのちの日記』を書き残された大島みち子さんは、「人生長きがゆえに尊からず、人生深きがゆえに尊し」と言われました。まさに、いのちの願いを見いだされ、いのち輝かせて人生を全うされました。
お釈迦さまが説かれた『大無量寿経』という経典に「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて」というお言葉があります。それは、「人間は、世の中のさまざまなしがらみの中で生活をしていますが、結局独りで生まれて、独りで死に、独りで来て、独りで去るのである」ということです。私たちは誰にも代わってもらうことができないのであって、すべては自分自身があたっていかなければなりません。そこに、大勢のなかで生活をしておりますが、本当に独りとなる、一人(いちにん)となることの意味を自覚することが大切であります。
この一人ひとりにいただいているいのちは、誰にも代わってもらうことのない、かけがえのないいのちですが、このいのちは、実は隣の人、あなたのいのちとつながっているのです。いのちは共なるいのちなのです。
私たちは、人ですが、あえて「人間」といいます。「じんかん」「人の間」と書きます。間とは、間柄であります。関係性です。私とあなたとの関係が生まれて人間となるのです。また、このいのちは、人間だけのものではありません。衆生のいのちです。生きとし生けるものがいただいているいのちであります。
このいのちは、共なるいのちであり、互いのいのちを確かめ、共に生きようとしているのです。春先に、毛虫が葉っぱのうえに群がっています。体と体とを触れ合わせて、相手を確かめ、葉っぱを一生懸命食べ生きております。ところが、一匹だけ取り出して、他の毛虫がいない葉っぱのうえにのせますと、葉を食べずにすぐに死んでしまったのです。いのちは共に、群れをなして生きているのです。
人間は、言葉でもって相手と触れ合っています。「今年の夏の暑さは大変厳しかったですね」「漸く凌ぎやすくなりました」と、あいさつをし、言葉を交わします。そこに人と人とのつながりが生まれ、あたたかさが通います。ところが、現在、暮らしは快適で便利で豊かさを求め、そして長生きをさせてもらう時代となりましたが、大切なものが多く失われています。その一つが、この「言葉」です。
「闇」という字があります。「あん」とも読みます。光のささない暗い状態で、門構えの中に音と書きます。その音とは言葉ということです。門は開閉、開き閉じられます。その言葉が閉じられる。言葉が通わない。言葉はその人の思いであり、こころであります。言葉が届かないことが闇であります。夫婦、親子、兄弟、上司と部下、先生と生徒など家庭や職場や学校など、せっかく間柄があるのに、言葉が通じ合わない、それが流転であり、闇であります。「流転」とは、「すれちがい」であり、苦をつくり迷い続けている姿であります。その自己中心の自らの闇を照らし出してくださるのが、いのちの願いであり、「共なるいのちに目覚めよ」と、呼び続けています。