おはようございます。このたびいただきましたご縁、今朝で最後となりました。それでは、前回に続いて、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマである"今、いのちがあなたを生きている"という呼びかけについて、どのように聞かせてもらっているのかをお話させていただきます。
いのちは、一人ひとりのなかにはたらき、支え、私となってくださるが、このいのちは、私の中にだけはたらいているのではありません。私とあなたとのつながりのなかにいのちは、より豊かに生き生きとします。いのちは共なるはたらきをしてくださることを前回お話しました。
お釈迦さまの前世、お生まれになる前ですが、ご修行される菩薩として、さまざまなお姿となって、生きとし生けるものを救われたというお話を集めた『ジャータカ』という物語があります。そのなかに、少年時代のお釈迦さまと従弟である提婆が森にでかけ、空飛ぶ白鳥を見つけると、提婆は弓矢で射落したのです。お釈迦さまが、先に走り矢が刺さっている白鳥を抱き上げたのです。そこへ提婆が来て、この白鳥は自分のものだと返せと言ったのです。2人は譲らず、お城に帰って皆の意見を聞いたが2つに分かれたのです。
その時、ある歳を取られた賢者、賢いお方が、「すべていのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではないのだ。」と言われたのです。厳かにいのちのまことを述べられたのであります。その言葉により、皆がうなずき静かになり、その白鳥は、いのちを愛そうとされる、お釈迦さまの手にもどったのです。
ここに、いのちを愛するお釈迦さまといのちを傷つける提婆の二人が、登場していますが、実は、私のなかにあるふたつの姿であります。いのちは、他を傷つけ、傷つけようとすれば、つながりを断ち、排除され、いのちは辛く悲しくなるのです。いのちは、愛そう愛そうとすることによって、いのちはのびのびと自由になり、溌剌と輝くのです。これがいのちのまことです。
他のいのちを傷つけていながら、傷つけていることがわからず、その自らの罪が見えてこなければ、いのちの感覚を失い、自分のおこないを正当化し、認め、責任を取ろうとしないのであります。今、世の中で、この私の中で、いのちに対する罪と責任ということが深く問われているのではないでしょうか。
このいのちのまこととは、阿弥陀如来のいのちであります。阿弥陀とは、インドの言葉で「アミュタース」「アミュターバ」と言います。「アミュタース」とは、「無量寿」「限り無き、量ることのできないいのち」であります。また「アミュターバ」とは、「無量光」「限りなき、無限の光」であります。限りなきいのちと光をもたれ、そのおはたらきが阿弥陀如来であります。如来のいのちは慈悲であり、光は智慧です。その慈悲と智慧をもって一切の生きとし生けるものを救われるのであります。
その阿弥陀如来のいのちの願いは、私たち衆生、生きとし生ける者の現実の姿のなかにはたらいてくださるのです。それは、誰しも幸せで安らぎを求めていますが、その中にあってどうすることもできない事実に出会っていくのであります。どうしても助かりたいという我が思いが中心となり、苦しみ悩むのであります。
如来の願いは、私たちの現実の有り様を悲しみ、哀れみ、何としても救わねばならない、衆生が救われなければ仏とならないと誓ってくださっているのであります。この如来の悲しみ、哀れみを如来の大悲心といいます。大悲とは大きな悲しみであります。この大悲心の願いに目覚めることによって、いかなる状況のなかにあってもそこに立ち歩むべき大地をいただくのであります。衆生の苦悩の深さにより、いよいよ如来の大悲がはたらいてくださるのです。如来のいのちと光は、量りなき無量であります。
6回にわたって、御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、お話をさせていただきました。ありがとうございます。