ラジオ放送「東本願寺の時間」

両瀬 渉(北海道 好蔵寺)
第2話 いのちを生きる [2008.2.]音声を聞く

ラジオをお聞きのみなさん、おはようございます。

数多くの作品を残しながら、若くして世を去った童話作家、金子みすずに、「お魚」という題の詩があります。JULA出版発行の『金子みすず全集』にある、その詩を読んでみます。

<お魚>
海の魚はかわいそう。お米は人につくられる、牛は牧場でかわれてる、
鯉もお池で麩をもらう。
けれども海のお魚はなんにも世話にならないしいたずら一つしないのに
こうして私に食べられるほんとに魚はかわいそう
*『金子みすず全集』(JULA出版)より

農業を営む人は、稲という植物を「お米」としてつくり、食べたり、売ったりして日常を生きています。また、牧場では「牛」や豚などの家畜がかわれていて、やはり肉や牛乳として食べたり、飲んだり、そして売ったりして生活しています。自分の家の池にいる「鯉」であろうと、観賞用に商売として育てているにしろ、やはり私たち人間の生活が関わっています。
このような人間の生活と関わって、つくられたり、かわれたりしている「お米」・「牛」・「鯉」と比べた時、海のさかなは、えさも与えられず、何の世話もされず、そして、何の迷惑もかけていないのに、私たち人間に食べられています。
金子みすずが、この詩で「かわいそう」と言っているのは、魚に対する単なるセンチメンタルな感情ではないと思います。生きる営みとして、そうせざるをえない、きびしい現実をかかえて生きてゆかなければならない人間に対しても、敢えて「かわいそう」と歌い上げているのだと私は思います。
ひとつのいのちを生きるということは、「魚」であれ、「人間」であれ、このように悲しく、きびしい現実をかかえこんでいます。つまり、「善いことをすれば善いことが起こる」とか、「悪いことをすると罰があたる」などという、人間の「小賢しい善悪」や、「一寸の虫にも五分の魂」などという「あわれみ」も入り込む余地などないのです。
このことを真宗をひらかれた親鸞聖人は、『歎異抄』の中で「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と、生きる人間の事実として示されています。
こういうことから、様々なことをせざるをえない人生が、本当に意義のある、かけがえのないものとなるようにしなければなりません。私たちは先ず、与えられている自分の人生の上にはたらいている、すべての命に対して、その恩恵を感じ取らなければなりません。
ごちそうが出されても、「おいしい」とか「まずい」とか言っている私たちは、ご飯としていただいた「お米」、肉や牛乳となってくれた「牛」、ながめて、心をなごませてくれた池の「鯉」に対して、その恩恵に気づくことを忘れて、むだにしていた自分の事実が明らかにされてきます。
このような私たち人間に対して、金子みすずは、「大海をただ泳ぐだけで、何の罪もないお魚までが、実は私たちのいのちとしてはたらいてくれているのですよ」と教えてくれています。そして、かわいそうなのは、実は「お魚」ではなく、このようなたいせつなことを忘れてしまっている「人間」のほうなのですよ、と。

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