ラジオ放送「東本願寺の時間」

両瀬 渉(北海道 好蔵寺)
第3話 いのちを尽くす [2008.2.]音声を聞く

ラジオをお聞きのみなさん、おはようございます。

今日は友人のお父さんのお葬式に参列した時のことをお話しいたします。
その友人のお父さんは、自衛官を退職後、福祉関係の仕事をされていました。その後、老人のための共同生活施設、いわゆる「グループ・ホーム」の設立のため、その準備の段階から尽力されていました。
その「グループ・ホーム」設立後は、施設長として働いていました。その施設を運営する社会福祉法人の理事長が「弔辞」をのべられ、お父さんのことを偲んでおられました。
施設の設立にあたっては、様々な資料や書類を取りそろえたり、施設の設計や必要な備品のチェック、そして、そこで働く職員の募集や人選など、準備段階が最も大変だということです。友人のお父さんは、責任感の強い人で、夜遅くまで、そして休日も返上してその仕事をされていました。
設立後は施設長として、職員の先頭にたって、施設の運営にあたっておられました。いつも言っていたのは、「福祉はもっぱらサービス業であり、利用者あっての施設、利用者あっての私たち」ということばだったそうです。そして、「いつの日か、私たちの施設が、サービスの充実した、この地域で一番の施設にしてみせる」とがんばっていました。
来る日も来る日も、一生懸命仕事に専念されていたのですが、体調の異変を感じ、精密検査を受けたところ、ガンであることが判明したのです。病状はかなり進んでおり、手遅れの状態になっていました。そして、治療を受けながらも、仕事はその後も続けていました。しかし、病状はどんどん悪化してゆきます。深刻な病状の中、ご自身でもいのちはそう長くないことを察知したのでしょう。理事長に次のようなことを言われたそうです。
「ここを、この地域一番の施設にするためにはあと2年必要だ。
だから、あと2年生きていたい。いや1年でもいい。
とにかく、もっと生きていたい。できるなら、時間がゆっくりと進んでほしい。」
理事長が涙ながらに弔辞の中で紹介されていました。
私たちは「今日が終われば、明日が来る」のが当たり前と思っています。自分につらいことや都合の悪いことがあれば、「早く時が過ぎ、水に流したい」と思ってしまいます。他人が悲しい出来事に出会っても、「時が過ぎれば、解決するよ」などと言ってごまかそうとします。やがて「死ぬ」ことは、頭の中ではわかっていても、「今日や明日のこと」とは思えず先送りにしています。
私たちに「死」ということがなく、「時間」が際限なく与えられているのなら、「明日」を思ったり、「早く時が過ぎる」ことを願っても許されるのかもしれません。しかし、私たちの「いのち」には限りがあり、与えられる「時間」も限られています。有限のいのち、有限の時間の中で自らの人生を生きているのです。
「もっと生きていたい」という友人のお父さんのことばは、「死への恐怖」や死を「先送り」しようなどというものではないと思います。「有限の時間」が、このうえなくかけがえのない、そして愛おしく大切なものとなったのでしょう。だから、「ゆっくりと進んでほしい」と願うのです。「正月も終わり、もう2月になってしまった。時がたつのが早いね」と何気なく交わすあいさつ。「時間が早く進んでしまう」毎日を、虚しく過ごしてしまっている私の心に、再び友人のお父さんのことばが深くそして重たく響いてきます。
「もっと生きていたい。時間よゆっくりと進んでほしい」

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