ラジオ放送「東本願寺の時間」

両瀬 渉(北海道 好蔵寺)
第6話 第二の産声 [2008.3.]音声を聞く

ラジオをお聞きのみなさん、おはようございます。

受験シーズンのまっただ中、高校や大学を目指して学生さんたちは一生懸命がんばっていることでしょう。そして、4月になれば、それぞれの学校に進み、入学式があり、新学期がスタートします。
スタートと言えば、英語では「卒業式」のことを「Commencement」と言いますが、これは「始まり」とか、「紀元前何世紀」というときの「紀元」を意味します。それぞれの課程や学業の修了、つまり「終わり」の儀式を「始まり」ということばで表すのには大きな意味があるようです。「終わり」と「始まり」は別々の出来事ではないということなのです。
ところで、仏教では、「生すなわち、生きること」と「死」ということを、「生死(せいし)」と書いて、「生死(しょうじ)」と読みます。そして、その意味することは、人間の「誕生」、すなわち人生の「始まり」と人生の「終わり」である「死」が、別々の出来事ではなく、実は同じ出来事なのだということです。人間として「生まれた」ということは、必ず人間として「死ぬ」ということなのです。
ところが、日常生活を送っている私たちにとって「死」は悲しい出来事であり、誰も望んではいません。その他にも、「病気」になることや、年をとって「老い」てゆくことも、望んではいない出来事です。だから、お釈迦様はこのような「生・老・病・死」、つまり「生き、老い、病になり、死んでいく」という人生を生きなければならないことを、「苦」すなわち「苦しみ」であると教えています。この「苦」の元々の意味に、人生において「経験」しなければならないことやその「内容」という意味が含まれています。つまり、一人の人間として生まれてきたということは、「生老病死」という「人生の経験内容」を生きていくということなのです。
しかし、私たちにとって、この「生老病死」という人生の経験内容について考えないわけではありませんが、あまり現実的に、そして切実なこととして受け止めようとはしません。なぜなら、真剣に考えれば、恐怖や不安を感じてしまうからです。作家の五木寛之氏は、『大河の一滴』という本のなかで、シェークスピアの『リア王』を引用して、生まれてくる赤ん坊の「産声」を、こうした恐怖と不安に満ちた人生を送ることを余儀なくされた孤独な人間の「叫び声」ではないかと言っています。そして、私たちが自らの意志ではなく、否応なしに、「泣きながら」この世に引き出されたとしても、やはり生きていることの意味を確かめて、納得して人生を送りたいと願うはずであると。*(『大河の一滴』、幻冬舎文庫、pp.21-22)
私たちは今日こうして「生きている」ことを当たり前に思い、「老い」や「病気」を先送りにして、「死」はあくまで今日や明日の出来事ではなく、いつか来る「最後」の出来事だと思っています。お釈迦様は、そんな私たちの思いに先立って、「いのちそのものは、生老病死という人生の経験内容を生きぬいていこうとすでに願っている」のだと教えてくれているのだと思います。
2011年に「親鸞聖人750回御遠忌」をお迎えしますが、そのテーマが「今、いのちがあなたを生きている」です。私たちは今、「いのちそのもの」の願いにめざめ、一人ひとりの人生における「生老病死」という経験の意味を問い直し、あたえられた人生が本当に意味のあるものとするために、人間としてもう一度「産声」をあげなくてはなりません。

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