ラジオ放送「東本願寺の時間」

能邨 勇樹(石川県 勝光寺)
第2話 形になった言葉 [2008.5.]音声を聞く

おはようございます。
今朝も宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話させていただきます。第2回は「形になった言葉」です。
私の実家のお寺は三重県にあるのですが、北陸を中心に遠方からわざわざ毎月泊りがけで仏教のお話を聞きにこられるようなお寺でした。子どもの頃から、仏教のお話を聞いている人たちからかわいがられ、近くの温泉や公園へよく連れて行ってくれたことを憶えています。念仏している人たちに囲まれながら育った私ですが、しかしある時期から育った環境に対して反発するようになりました。「なぜ念仏なんかしなければならないのか」「念仏をして何の意味があるのか」と周りを見てずっと感じていました。そのことが私の中で問いとなったのです。
「なぜ念仏なのか?」現在もその問いは私の中で持ち続けていますが、いま少し思うことは「代われないという問題があるからではないか」と思っています。代われないとは、たとえ我が子であったとしても決して代われない。本人の問題は本人が乗り越えていかなければならない問題があるのです。どんなに可愛くても「往生は一人一人のしのぎ」です。
その例えがお釈迦さまの「四門出遊」のお話ではないでしょうか。四門出遊とは四つの門から出て遊ぶと書きますが、お釈迦さまが東西南北の4つの門から出て出会われたエピソードをいいます。お釈迦さまは幼少の頃より物思いにふけることが多かったと言われていますが、それを国王であるお父さんや周りの人たちが、少しでも悩ませないように、嫌な思いをさせないようにと、「権力」と「財力」を使って徹底的に問題を取り除こうとするわけです。
しかしそれでも直面した問題が、生まれたという事実から「老・病・死」―老い、病、死ぬ―いのちあるものは同じ姿を保つことはできないという問題です。この問題だけは親がどれだけ愛情いっぱいに我が子を守ろうとしても出会わなければならない本人の問題です。ある意味この本質的な問題を乗り越えないと、たとえ境遇として恵まれていても、このいのちを本当に輝かすことはできません。だから念仏なのだと私は思うのです。
念仏というのは念仏したからといって良いことが起きるわけではありません。しなかったからといって悪いことが起きるわけでもありません。しようがしまいがご縁がくれば待ったなしなのですが、ただ違うことは昔の人を見ていると出遇ったことを縁に目覚める生き方をされていたと思うのです。
たとえば病気でも「娑婆はこんなものや。オレだけでない」と思う人もいれば、それを縁に道を求められた人もいるのです。どちらを生きるかは本人の問題です。できれば目覚める生き方をしてほしいと、無数の人の願いが念仏となって私たちに届けられているのです。
しかし私はそういう世界に触れるまでは、念仏の声も、夏に鳴くセミの声も同じように思っていました。ただうるさいだけでないかと・・・。
しかしそうではなかったのです。念仏には深い願いが込められていたのです。
それだけではありません。念仏には「老・病・死」―老い、病、死ぬ―の課題を乗り越えて生きた人の歴史が厳然とあるのです。
つまり南無阿弥陀仏という言葉は単なる言葉ではなく「歴史」と「願い」が「形にまでなったもの」なのです。その世界を「どうか尋ねてほしい。たった一つしかないこのいのちを尽くしてほしい」と私たちは念仏から、無数の人たちから願われているのです。
そう思うと私自身小さい頃から多くの人に可愛がられ「念仏してね」と勧められてきたわけですが、今はその人たちの願いに真向かいになって、少しでも歩んでいければと思っています。

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