ラジオ放送「東本願寺の時間」

能邨 勇樹(石川県 勝光寺)
第4話 道を求めるということ [2008.5.]音声を聞く

おはようございます。
今朝も宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話をさせていただきます。第4回は「道を求めるということ」です。
私のお寺では前住職主宰の「仏弟子入門講座」をしています。この講座は帰敬式・おかみそりを受けていただき、ひとりでも多くの人に仏教を依り所に歩んでもらいたいという願いのもと開かれています。おかみそりは仏弟子・仏さまの弟子になるための儀式で、頭に「かみそり」を3回当てて行います。今から10年前に多くの人に混じって元市長のTさんも夫婦そろって受講されました。後日Tさんとお会いする機会があり、その時いろいろとお話を聞かせていただきました。
おかみそりを受けてよかったという感想をお話してくださったのですが、そのきっかけとなったのが友だちの死だったというのです。若い頃から何をするにも競ってきた仲のいい友だちで、その方が病気で亡くなってしまいました。寂しい思いを持ちながら葬儀に参列したそうです。そのときに亡くなった友だちがおかみそりを受けていたのを目の当たりにして、友だちと同じようにおかみそりを受けたいと思ったそうです。
そもそもおかみそりは「髻(もとどり)」を切るということなのですが、「もとどり」とは頭の上に束ねた「まげ」のようなもので、いわゆる世間の評判とか損とか得とかに執着する心を表わすのですが、それを切って初めて仏弟子になれるのです。Tさんは亡くなった友だちのおかみそりを見て、私も同じように生きたいと。
「これからの人生、世間の利害とか評判とかで生きるのではなく、仏弟子になりたい」と思い講座を受けてくださったそうです。
またTさんは今まで仏教は難しいと思っていたけれども、講座を受けて当然だったということに気がついたというのです。
「『もとどり』を切らないで、自分の考えを少しも変えずにそのままで仏教をわかろうというのは、無理な話だった。仏さんをわしづかみにする話だった。『もとどり』を切って、私の考えを切って始めて分かる話だった。分からんことが分かった」
とにこやかに仰っておられました。
Tさんは想いを持っておかみそりを受けられたのですが、それ以降、お寺にお参りがあると一番前に座って仏教の話を聞かれるようになりました。正直申し上げて世間的に偉い方とか立派な方は、なかなか仏教を聞くということが難しいイメージがありました。しかしTさんはそうではありませんでした。
『観経』というお経の中に道を尋ねるということについて
「自ら瓔珞(ようらく)を絶ち、五体を地に投げた」
と表現されています。瓔珞とは豪華な飾りを意味するのですが、この場合地位とかプライドを指します。それらを全て棄てて大地にひれ伏したと説かれています。つまり道を本当に求めるということは全てを棄てることであり、大地にひれ伏すことであると言われるのです。
しかしながら私はそのことがとても難しいように感じるのです。やってきた経験とかプライドとか、いわゆる自己保身というものがなかなか棄てらないように思うのです。しかしTさんは今までの経歴がありますが、前へ座られ熱心に聞いています。それだけではありません。浄土真宗をひらいてくださった親鸞聖人の法要を報恩講といいますが、Tさんの地域の報恩講に行った時に私は住職として1軒1軒回ってお勤めをしなければなりません。その時、Tさんは日本海から吹く寒い風の中、私の前を歩き盾になってくださるのです。そして一軒一軒案内をし、一緒にお勤めをしてくださるのです。
そういう後姿を見て「お前は偉そうに衣をまとっているが、本気で道を求めたことがあるのか?一度でも身をもって聞いたことがあるのか?」と厳しく問われてきたことです。真に道を求めるということはどういうことかをTさんから身をもって教えていただいたことです。願わくば私も同じ道を歩みたいと思っています。

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