おはようございます。
今朝も宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話をさせていただきます。最終回は「居場所」です。
今日の時代状況を思うとき、私は「居場所」ということを思うのです。ある識者の方が今の若者たちは居場所を探しているというのです。余りあるほど物が与えられ続けられて、生きている実感をもてないからだそうです。また子どもに関する痛ましい事件がいくつも起きていますが、居場所があれば事件にまで発展しなかったのではないか。愚痴でもいえる場所があればこんなことにならなかったのではないかと思うのです。そういう諸々の思いが居場所ということを思わせるのです。
居場所とは「自分が自分でいられる場所」「自分が自分に帰れる場所」をいうのですが、ある意味親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗は「本当の居場所、真実の居場所」を提示しているように思います。「浄土」とか「極楽」という世界がそれを表わしていますが、一般的なイメージとかけ離れているかもしれません。しかしお経の中には本当の自分に帰れる場所、真実の依り所として「浄土」「極楽」と説かれています。
例えば『観経』というお経の中に出てくる古代インドの王妃韋提希(イダイケ)は、本当の居場所を見つけ願った人ではないかと思います。話は「王舎城の悲劇」といわれる事件に出会うことから始まります。韋提希という女性の一人息子が自分の夫、息子からすれば父親を結果的に殺してしまうという、家庭の崩壊が起きるわけです。それだけではなく我が息子から自分までも殺害されそうになり、現実が引き受けられず嘆き悲しみます。
そしてお釈迦さまがお出ましになるのですが、韋提希はその受け止められない心を全てお釈迦さまにぶつけていきます。私はこのぶつけることができたということは大事なことだと思うのです。ぶつけて初めて見えるもの気付くものがありますが、韋提希の場合も同じように深まっていきます。
そしてお釈迦さまの教えを通して極楽・浄土を楽(ねが)うという展開になるわけですが、私はここで説かれている極楽・浄土というのは韋提希が本当に求めていたものに気付いた世界ではないかと思うのです。
仏教を聞くと、考えもしなかったことを考えるようになったり、日頃思ったことのない浄土とか、突然考え始めるというのではなく、人間が本来求めているもの、生まれながらにして探しているものに気付いていく。それを「浄土」・「極楽」といわれるのです。韋提希も王舎城の悲劇をきっかけに、お釈迦さまと出遇い、人が本来帰るべき願うべき世界を見い出していったのです。言い換えれば本当の居場所を見つけ歩み始めたということではないでしょうか。
私はこれらの韋提希が目覚めていく過程を思う時、お釈迦さまとの出遇いを思うのです。その場所がなければ決して韋提希は真(まこと)の依り所を見つけられなかったのではないでしょうか。
考えてみれば親鸞聖人も師匠の法然上人との出遇いの場所がありました。記録によると法然上人の所には当時の身分を越えていろんな人が集まって場所を創っていました。激しい討論もあったようです。その場所の中で親鸞聖人は本当に自分が探していた世界に気付かれていかれたのです。法然上人や仲間たちとの出遇いを通して本当に帰るべき世界「浄土」「極楽」を見つけられたのです。それは親鸞聖人が書かれた『教行信証』に
「雑行を棄てて本願に帰す」
という回心(えしん)の言葉として表されています。
今、居場所が求められている状況を思う時、また親鸞聖人の御遠忌をお迎えする状況を思う時、それぞれの現場で場所を開き、関係を開いていくことが求められているのではないでしょうか。