ラジオ放送「東本願寺の時間」

林 文照(岐阜県 林正寺)
第一回 真宗の出会い その1音声を聞く

 私どもの宗派は、宗祖親鸞聖人が開かれた真宗大谷派です。私自身の日常生活の中で、真宗を感じた出会いについて、これから六回にわたってお話をさせていただきたいと思います。
 今年はテレビドラマの影響か、平清盛に注目が集まっています。この清盛の時代は、わたしたちの宗祖親鸞聖人が生きられた時代とほぼ同時代であり、歴史を学ぶと親鸞聖人の時代背景について、さまざまに考えさせられます。
 まず、この平安時代末期から鎌倉時代にかけては、世の中が大きく揺れた激動の時代であったということです。平安京へと都が移って、約四百年続いた王朝貴族中心の時代が行き詰まっていました。当時、国政の実権は、藤原摂関家が握っていました。摂関政治という語句があるように、藤原氏は天皇家に娘を嫁がせて親戚となって、天皇が小さい時は摂政、長じては関白という位について政治を動かしたのです。藤原道長、頼通父子の時代はその絶頂であったことは有名な話です。その後、天皇家が実権を取り戻そうと画策します。天皇を退いた後、上皇となり、さらには出家して法王となっていわゆる院政を敷き、藤原氏を押さえようとしました。この平安末期から鎌倉時代へと向かうわずか数十年間の移り変わりを見ると、権力や地位を求めて葛藤した人間の業の深さや、愛欲に生きる赤裸々な姿が浮かび上がってきます。その天皇家と藤原摂関家の権力を巡る闘争に担ぎ出され、利用され、利用していったのが、平氏であり、源氏という武家であったのでしょう。
 さて、親鸞聖人はお寺に生まれた方ではありません。日野家という藤原氏につらなる貴族の生まれです。京都伏見には親鸞聖人が誕生されたと伝えられる日野法界寺がありますが、日野家は貴族としては有力ではなかったようです。まして親鸞聖人は、母とは幼い頃に死に別れ、父親は失踪するという不遇の環境に育たれました。そして、1181年、養和元年、九歳になられた親鸞聖人はご出家を決意され、比叡山延暦寺へと上られたのでした。
 このご出家の前後は、先ほど申したように、世の中は騒然とした状況でした。前の年、以仁王は平氏追討の命令を下し、源頼朝が伊豆で挙兵するなど各地で打倒平氏の動きが激しくなります。平氏はこの困難な状況を打開するため、年の暮れに敵対する宗教勢力であった奈良の興福寺と東大寺を焼き打ちにしてしまいました。明けた養和元年には、高倉上皇が二十一歳で亡くなり、続いて平清盛も亡くなり、その喪の明けぬうちに平重衡が源氏を討つため軍勢を率いて関東へと向かったのでした。
 そればかりではありません。この年は春夏の干ばつ、秋の大風、洪水などで作物が実らず、はやり病も加わって、鴨長明の「方丈記」に見るごとく、京都は凄惨な有様となりました。「養和の大飢饉」として知られていますが、四月、五月の2カ月間だけで京都の死者は4万2300人を数えたといいます。
 このように、親鸞聖人のご出家は、相次ぐ戦乱と大飢饉のまっただ中で行われたのであり、仏法を学ぶためというよりは、没落した貴族の子弟として、切羽詰まった、混乱の世を生き延びるためであったのではないかと思われます。そして、少年の感受性の強い心に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
 当時の比叡山は、どのような場所だったのでしょうか。伝教大師最澄が開いた延暦寺は仏法を志す者が集まる一大聖地でした。しかしながら、聖人が上られたころには、この世の利益を求める加持祈祷や、現実の生活とは無関係な学問の場になっていました。しかも貴族社会と結び付き、広大な荘園を持ち、僧兵と呼ばれる強い武力すら持つようになっていたのです。
 その中で、親鸞聖人がどのような生活を送っておられたのか、はっきりした史料は残されていません。堂僧という常に念仏を行う役割の僧として、日々、修行生活されていたのではないかと考えられています。しかしながら、苦悩に満ちた混迷の世を目の当たりにしてきた親鸞聖人にとって、心の内から湧き出てくるさまざまな「問い」を満足させることはできなかったのでしょう。やがて、二十年も修行した比叡山を後にする決意をされます。そして、東山のふもと、吉水でお念仏の教えを説いておられた法然上人を訪ねることになるのです。

第1回第2回第3回第4回第5回