ラジオ放送「東本願寺の時間」

林 文照(岐阜県 林正寺)
第四回 真宗の出会い その4音声を聞く

 私自身が、日常生活の中から、真宗を感じた出会いについてお話をさせていただいております。
 もう五年ほど前になりますが、わたくしどもの宗派、真宗大谷派の本山である東本願寺の御影堂が修復中で、阿弥陀堂に宗祖親鸞聖人の御姿を彫った木像・ご真影が安置されていた時のことです。その日私は阿弥陀堂であったお朝事にお参りしていました。本山のお朝事とは、午前七時からのお勤めで、お勤めの後に本願寺八代の蓮如上人の書かれたお手紙である御文が拝読され、それから15分ほどの法話があります。このお朝事には一般の参詣者ももちろんおられますが、それほど多いわけではありません。研修生や全国各地からご上山さ れた奉仕団の方々、それから毎日ご参詣くださる方々がお参りになっています。
さて、お朝事が終わり、私は、阿弥陀堂を退出して階段を降りようとしたところで、「すみません」と呼び止められました。振り返ると一人のご婦人が立っておられました。見覚えのない方だったので、「はっ、私ですか?」と聞き返しますと、そのご婦人は「はい。ちょっとお尋ねしたいのですが」と申されました。そして、「今、ここでお参りをさせていただいて、みなさんが『なむあみだぶ』とかお経のようなものを大きな声で唱えているのを聴いて、何だかとても感動しました。それでお尋ねしたいのですが、なむあみだぶってどういう字を書くのですか?そして、どういう意味があるのでしょうか」と言われたのです。
 私は虚を突かれたような思いがして、少し戸惑い、まじまじとご婦人のお顔を見つめてしまいました。早朝のお朝事にお参りになる一般の方は、常連の熱心なご門徒さんばかりだという先入観があったからです。外見から、そのご婦人は観光旅行のようでした。私は持っていたお勤めの本を開いて、「南無阿弥陀仏という字はですね、南無は南に無いという字で・・・」と漢字を説明しました。「意味は『南無』はたのむこと、おまかせしますということです。『阿弥陀』には無限の寿命、無限の智慧という二つの意味が重なってあります。仏とはほとけさま、如来さまです。つまり自分自身が南無阿弥陀仏、お念仏と言いますが、称えることで、『無限の命、無限の智慧のほとけさまに一切をお任せします』という表明になるのです。いきなりはちょっと理解しにくいとは思いますが」と説明しました。すると、そのご婦人は「そうでしたか、ありがとうございました。少し分かる気がしますよ」とにこやかにおっしゃると、お一人で境内を出ていかれました。
 その後ろ姿を見送りながら、ふと気がつけば私は僧侶の衣を着ているわけでもなく、まったくの普段着姿でした。「一体なぜ、あの人は私に声を掛けたのだろうか。ほかにもっと上手に説明できる方がおられたのに」と思いました。
 考えてみればまったく不思議なことです。あのご婦人は、何かのきっかけで、京都へ行こうと思い立ち、恐らく京都駅に降り立って歩き出した。東本願寺の前を通り掛かり、伝道掲示板を見たのか、何か興趣をそそられることがあって境内に足を初めて踏み入れた。そして、お勤めの声が聞こえるのに導かれるように阿弥陀堂に入ると、お念仏の声に感動し、近くにいた私にその意味を尋ねてみた――。
 想像しながらストーリーを描くとこんなところでしょうか。ご婦人が阿弥陀堂までたどり着く道のりは、自分で選択しながら来たように見えますが、すべては縁の積み重ねによって成り立っているとも言えると思います。もし、違う日だったら、電車に乗り遅れていたら、東本願寺の前を通らなかったら、お朝事に参らなかったら・・・。そして、声を掛けたのが私ではなかったら。「もし」を重ねて行けばきりがありませんが、お念仏に出遇うための不思議な仏縁、ほとけさまを通してのご縁としか言いようのない出来事であります。
 私自身、もし呼び止めていただかなければ、そのご婦人と会話をすることはなかったでしょう。そして、この出来事をこの場でお話しすることもなかったのです。
 私はこのご縁が、「お念仏をよく確かめて日々生活せよ」という、阿弥陀さまと親鸞聖人からの私自身へのメッセージであったかと受け止めていることです。

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