ラジオ放送「東本願寺の時間」

林 文照(岐阜県 林正寺)
第五回 真宗の出会い その5

 私は、東本願寺を本山とする真宗大谷派の僧侶です。私自身が日常生活の中で、真宗を感じた出会いについてお話しさせていただいています。今回と次回の二回は、作家の高史明先生から、最近聞かせていただいたお話をご紹介したいと思います。
 まず、高先生の略歴をご紹介させていただきますと、1932年に山口県下関市にお生まれになられた在日朝鮮人の二世です。高等小学校を中退されたあと、さまざまな職業を経て作家生活に入られました。著作に『生きることの意味』『高史明親鸞論集』『現代によみがえる歎異抄』『闇を食む』『月愛三昧』などがあります。
 私は先般、東本願寺の同朋会館で、一泊二日の日程で高先生のお話を聞くご縁をいただきました。同朋会館というのは、東本願寺の境内地にあって、国内外の一般の信者さんであるご門徒や僧侶が共同生活と清掃奉仕をしながら仏教の教えを聞く研修施設です。
高先生は、寺の子弟でも門徒でもなかった自分が、なぜ真宗と出遇ったのかということをお話しされました。そして、その出遭いはまさに仏縁、仏さまからのご縁としかいいようのない因縁を持っていたのでした。
 高先生が真宗の教えに耳を傾けられるようになったきっかけは、中学一年生、十二歳になる一人子の男の子が、自ら命を絶ったことでした。我が子がいつも学校から帰って来る時間になっても帰って来ない。胸騒ぎがして心配していると警察から連絡があり、駆けつけてみれば、そこで、もう息を引き取った我が子と対面されたのでした。お子さんは一冊の手帳を残されていました。自由帳として、さまざまな詩がそこに書かれていました。最後の詩がありました。それは、「ぼくはしぬかもしれない。でもぼくはしねない。ぼくだけはぜったいしなない。なぜならぼくはじぶんじしんだからだ」という詩でした。最後の一文は字のわきに一文字づつ強調する点が打ってあったそうです。一体、我が子の中に何が起きていたのか?なぜ死ななければならなかったのか?言い尽くせない衝撃と、言葉にならない日々が続きました。苦しみもがき続ける中で、高先生はかつて手にしたことのあった『歎異抄』に再び出遇われたのでした。
 歎異抄は、親鸞聖人のお言葉を傍らにおられた弟子の唯円師が書きとめられた、いわば語録です。歎異抄に救いを求めて読みふける高先生の中に、第五章の言葉が響いてきました。その言葉は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」です。親鸞聖人は「わたしは父、母の供養としての念仏はただの一返すら唱えたことがない」と断言されているのです。我が子の死に直面して、身の置き所のない苦しみの中の高先生は、どうやって毎日生きていけるのかということで、無意識のうちに我が子に向かって、我が子の供養を考えながら、念仏しておられたのでした。そして、歎異抄によって自身の心持ちに気づかされたのでした。高先生の心に疑問がわき起こります。「いったい、念仏するとは何なのか」「供養するとはどういうことなのか」と。高先生は悲しみの中に新たな問いを抱えられたのでした。
 この歎異抄の第五章は、「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれもこの順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と続いています。現代の言葉にすれば、「一切のこの世の生きとし生けるものはみな、生まれ変わり死に変わりしていく父母であり、兄弟である。だから、この次には自分自身が仏となって、すべてをお救いしなければならない」という意味でしょう。
 私は、この歎異抄第五章の言葉には、自分自身へとつながっている数限りない命の連続性と平等性への認識と、仏となるという新たな命の大地への目覚めということが説かれていると思うのです。そして、この身に起きた肉親との悲しい別れの事実を厳粛に受け止めつつ、そこだけにとどまることなく、新たな一歩を踏み出していくように促される親鸞聖人の力強い眼差しを感じられるのです。

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