私どもの宗派は、東本願寺を本山とする真宗大谷派です。私自身が日常生活の中で、真宗を感じた出会いについてお話をさせていただいています。
東本願寺には同朋会館という、仏教のお話を聞く聞法と研修のための宿泊施設があります。ここには国内はもとより海外からも、私どもの宗派、真宗大谷派の奉仕団の皆さん、僧侶、僧侶になろうとする人々、研修を受ける人々が、年間数千人も集まってこられます。
この同朋会館では、お夕事といって、来館者全員で夕方のお勤めをいたします。お勤めが終わりますと、来館者の中から三名ほどが選ばれて5分程度、日頃感じていること、課題としていることなど、自由なテーマで話をする「感話」という時間があります。
ある時のことです。一人のブラジル人青年が感話に立たれました。真宗大谷派の僧侶となるべく、資格取得の勉強のため、ブラジルから来たと自己紹介されました。そして、「わたしは日系ではなく、ブラジル生まれのブラジル育ちです。わたしの子どものころ、隣に住んでいた日系のおばあちゃんから歌を教わりました。その歌とはこんな歌です」と歌い始められました。流暢に歌ったその歌は、日本人なら誰しも馴染み深いチューリップの歌でした。そして、「日本に来て、生まれて初めてチューリップの花を見たのですが、すぐにチューリップだと分かりました。何故ならほんとうに歌の通りに赤、白、黄色、どの花もきれいだったからです。そして、あのおばあちゃんのことを懐かしく思い出しました」と嬉しそうに話してくださいました。
私もそのお話を聞きながら、ある人のことを思い出していました。それはブラジルの首都サンパウロにある東本願寺のお寺、それを別院と言いますが、その別院にいるはずの親友、Iさんのことです。もう何年も会っていません。彼はブラジルでの布教を志して、親鸞聖人の教えを伝える開教師として赴任したのです。
この青年にIさんのことを聞いてみようと思いましたが、研修団体が違うので無理かと思っていたところ、偶然にもお風呂の脱衣場で会うことができました。わたしは、Iさんのことを知っているか尋ねてみました。すると、彼は「おー、Iさん」とびっくりした声を上げ、「知っているどころではありません。Iさんは私の大切な先生です。素晴らしい人です」と言うではありませんか。私はすっかりうれしくなり、「Iさんがいなくなって私はとても寂しいのです。早く日本に帰ってきてくれるように頼んでくれませんか」と言いました。すると、彼は「それはだめです。私にとって、真宗に出会う縁を作って下さった大切な方ですから。まだまだ日本に帰ってもらっては困ります」と言うのでした。
これは考えてみれば、本当に不思議なご縁であります。地球の反対側の見ず知らずの青年と京都の同朋会館で出会い、しかも同じ人を大切な人としてつながっているとは。そんな話をして、お互いにうちとけあい握手を交わしました。
この出来事から、私は宗祖親鸞聖人の布教活動のことを思います。お念仏のみ教えは、順風万帆に広まってわたしたちのところにまで届けられたわけではありません。西暦1207年、朝廷は興福寺から出されていた訴えを受けて、念仏を止めるよう命令を下し、親鸞聖人のおられた法然上人の吉水教団を弾圧したのです。承元の法難と呼ばれる事件です。法然上人、親鸞聖人は僧籍を剥奪されて、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと流罪となったのでした。そのほかにも流罪、死罪となった門弟がおられました。親鸞聖人は越後で五年間の罪人生活を送った後、罪を赦されても京へは戻ることなく、関東の地へと赴き、二十年間の布教活動にいそしまれたのです。そして、大勢のご門弟を育成されました。現存する親鸞聖人のお手紙を拝見すると、いかに親鸞聖人が関東のご門弟の指導に親身になっておられたか、その熱意と努力が伝わってきます。関東のご門弟もまた、親鸞聖人のお徳を慕い、信心のことで不審があれば、お手紙で尋ね、また、はるばると上京して直接、お話をお聞きになられたのでした。
親鸞聖人の生きられた鎌倉時代と現代とではまったく生活環境は異なっています。しかし、ブラジル人青年との出会いによって、いつの時代であっても、人はやはり、よき人によって仏法に出遇っていくのだということ、そして、幾多の困難を経て、地球の反対側にまで真宗の教えが確かに届いていることを教えられたのでした。