おはようございます。今日から六回にわたって、東本願寺を開かれた教如上人、この方のお話をさせていただきます。教如上人は、慶長19年、西暦1614年に亡くなられましたので、2013年の今年は、ちょうど400回忌に当ります。四月には東本願寺で法要が勤まることになりました。
これを機縁として、語られることが少なかった、教如上人について、理解を深めたいと思っております。教如上人を語ること、それは、教如上人が開かれた東本願寺を本山と致します真宗大谷派という教団、それがどのような理念で開かれたのかを明らかにすること、真宗大谷派教団の、存在意義を語ることなのです。
教如上人の時代は、信長・秀吉・家康という三人の天下人が覇を競った戦国時代でした。上人ご誕生の二年後に桶狭間の合戦が起り、織田信長が登場してきます。上人が亡くなられた直後には、大坂冬の陣が起り、翌年の夏の陣で豊臣家が滅亡し、勝った徳川家康も、その次の年には亡くなります。上人はまさに戦国時代を生き抜かれたのでした。
本願寺11代の顕如上人の長男に生まれられ、12代を継がれたのですが、その後に、別に東本願寺を開かれました。何があったのでしょうか。
上人のご生涯には3つのポイントがあります。第1は、信長との戦いです。13才の時、当時大坂にあった本願寺に立て籠もって信長と戦う、石山合戦が始まります。23才の時には、ようやく和睦が成って、本願寺は今の和歌山市へ退去しますが、上人はこれに反対して、大坂本願寺に篭城を続け、そのために父・顕如上人から親子の縁を切られ、以後二年の間、各地に潜伏する時期を過ごされます。信長が本能寺の変で殺されるまで続きました。この、信長との戦いと反逆、これが第1のポイントです。
その後、秀吉が権力を握りますと、上人は本願寺新門跡として秀吉に従い、35才の時、父・顕如上人が病没されると、本願寺12代を継がれました。ところがその翌年、秀吉は上人に退隠を命じます。秀吉には目障りな男と映っていたのでしょう。以来45才までの11年間、隠遁の身でありながら、本願寺の門主としての活動を継続されます。その一例を挙げますと、大坂の渡辺の地に寺を開き、釣鐘に「本願寺」と刻んだことなどがその典型です。第2のポイントは、秀吉権力の下にありながらの、反逆です。
やがて秀吉は世を去り、天下分け目の関が原合戦が起ります。上人はその直前に、関東の家康の下に至って石田三成挙兵を知らせました。そのため帰途には石田方に襲撃され、上人を支援する人びとの命がけの助力で、ようやく京都へかえることが出来ました。以後、家康と親交を深め、東本願寺開創に至るのです。家康への接近、これが第3のポイントになります。
「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」と信長が言ったそうです。秀吉は「鳴かせてみよう」と言い、家康は「鳴くまで待とう」と言ったと伝えられます。その鳴かぬホトトギス、それが教如上人だったのです。鳴かぬホトトギス教如上人、その鳴き声は、どのようなものだったのでしょうか。
このように申してきますと、教如上人は、なんだか坊さんらしからぬ人というイメージになってしまいます。でも、本当にそうだったのでしょうか。東本願寺というお寺を開くには、それにふさわしい宗教的理念があったはずです。一つの逸話があります。いまは物乞いになった浄念という男が、上人に仏弟子になるお剃刀の儀式を求めてきた時に、上人は「非僧非俗、我等遠行の後、死骸を加茂川に入れ、魚に与うべし、とある上は、本願寺の家は慈悲をもって本とす」と述べられました。親鸞聖人の「非僧非俗」という言葉を引かれたのは、仏弟子になるのには僧とか俗とかという身分は関係ないということですし、自分の死骸を魚に与えよというのは、我が身を捨てて弥陀の慈悲を明らかにするということですから、これが慈悲を本とする本願寺だ、といわれたのです。僧俗を越えた慈悲の教団、上人が語られた本願寺のあるべき理念がここに読み取れます。次回以降、この上人の理念を具体的にお話したいと思っています。