おはようございます。今日は、親鸞聖人のご絵像のことを取り上げて、教如上人が考えておられた教団の姿を、お話することに致します。
真宗のお寺へ行かれますと、正面にご本尊阿弥陀如来がおられ、向かって右側に、親鸞聖人のお絵像が掛かっています。お顔をやや斜め左向きにして座っておられます。ご本尊の阿弥陀如来を仰ぎみて、如来の本願を、聴聞されているお姿です。阿弥陀如来の教えに生きる人々の代表として、阿弥陀如来に向かっておられるのです。
ところが、そのお姿と違って、真正面を向かれたご絵像がございます。全国各地に本願寺の別院がありますが、そこに掛けられている親鸞聖人のご絵像は、真正面を向いておられて、真向の御影、と呼ばれています。ご本尊の阿弥陀如来は、真正面を向かれて、私たちに本願を解き明かしておられるのですが、それと同じく、真向きの親鸞聖人のご絵像も、私たちに本願を解き明かしておられる、いわば説法されているお姿です。
そのお姿は、本願寺の御影堂に安置されております聖人のお木像、それは真正面を向かれていますが、そのお姿を絵に写したのが真向きのご影像なのです。真向きのご影像は、以前にもなかったわけではありませんが、実質的には教如上人の発案になるといってよいのです。京都烏丸に東本願寺が別に開かれました時に、関東の妙安寺というお寺に伝わっていました親鸞聖人ゆかりのご木像が、教如上人に譲り渡されて、東本願寺に安置されることになったのですが、その時に、妙安寺に、いわば身代わりとして下されたのが、真向きのご影像でした。これが事実上の真向きのご影の始まりです。
教如上人は、各地に多くの御坊、すなわち現在の本願寺別院ですが、それを開かれました。そしてこの御坊に、真向きのご影を安置されたのです。教如上人ゆかりの御坊を幾つか挙げておきます。大阪の難波別院は、教如上人が秀吉によって隠退させられた直後に、大阪の渡辺に開かれました。やがて現在地に移転させられますが、いまも境内に「大谷本願寺」という銘文を持つつり鐘が残されています。この難波別院は南御堂とも呼ばれ、この御堂にちなんで御堂筋という大阪の中心街の名前が生まれました。大阪には他に、天満・八尾・茨木の別院が教如上人ゆかりの御坊として開かれました。滋賀県にも四つの別院がありますが、その内の大津と虎姫の別院が教如上人ゆかりの御坊で、虎姫の五村別院には上人のご廟もございます。北陸では金沢別院があります。かつての一向一揆の中核であった金沢御堂が教如上人によって再興されて御坊となりました。三重県の桑名や兵庫県の姫路の別院へは、教如上人のご息女が入寺されています。
本願寺に安置されています親鸞聖人のご木像は、親鸞聖人への報謝の営みであります例年の報恩講に読み上げられます、式文に、「真影を眼前に留めたまう」と、「真影」と記されています。それがなまって、「ごしんねさま」、とも尊称されます。真のお姿という意味と同時に、親鸞聖人があたかも生きて法を説いておられるかのような、という意味で「生身の御影」、あるいは生きておられる身に等しいという意味で「等身の御影」とも呼ばれます。また、阿弥陀如来がこの苦の世界である娑婆という現世に現れた姿が親鸞聖人と観念されて、「権化の再誕」とか「弥陀如来の応現」ともいわれます。如来の、この世でのはたらきが十字名号で示されましたが、如来が人間の姿ではたらかれたのが親鸞聖人だったのです。
そのような親鸞聖人の、ご真影の分身として、各地の御坊に下されたのが真向きのご影でした。親鸞聖人は各地に下られ、ご座所を得られ、説法されている、その下に、地域の道場が結集され、地域信仰共同体が寄り合う、御坊と道場を基本とする教団、これが教如上人が描かれた本願寺教団のデッサンだったのです。別院が開かれた理由と、真向きのご影安置の意味が、教如上人を学ぶことで、自ずから明らかになってきたと思います。