おはようございます。前回までは、理念的な面から教如上人を語ってきましたが、今朝は、行動的な側面に焦点を当ててまいります。
教如上人が、和讃書き添え十字名号や、聖典文言の掛軸など独自な方法を用いて、全ての人びとが、ありのままに、必ず救われねばならない、という慈悲の家本願寺の理念を表明されましたが、教如上人は、なぜにそのように考えられるに至ったのでしょうか。
教如上人23才、天正8年、1580年に石山合戦が講和を迎えます。でも、教如上人はこれに反対して、大坂本願寺で篭城を続け、顕如上人から親子の縁を切られます。この父と子の葛藤の姿は、真宗が依拠する浄土三部経の一つである観無量寿経、ここに説かれた物語、父を殺し、母を害せんとした王子阿闍世の姿が、思い浮かびます。教如上人は、親に逆らう阿闍世に自分の姿を見られたのでしょう。逆らう者であるが故に、必ず救われねばならないのです。
教如上人は、以来二年間、各地に身を潜められます。その経路には諸説がありますが、私の推定を申し上げます。本願寺が移っていた和歌山から紀伊半島を横切って桑名へ、そこから長良川を遡って郡上八幡方面へ向かわれました。中流域の美並村刈安の戸谷道場に、さらには長良川の支流、吉田川の上流へ出て、その山中に暫く足をとどめられます。この地は、現在も教如屋敷と呼ばれています。そこから越前へ向かい、今はダムの底になった穴馬谷を経て、大野城下の近くの富島という所で、およそ一年を過ごされます。その間には、近くの六呂師高原を訪ね、あるいは加賀の手取谷に入って、吉野谷という在所に滞在されたとも伝えられます。その後、引き返して、白川郷から越中五箇山に至ったと思われます。
この地域は、白山山麓を西から南、東と廻る越前・加賀・美濃・飛騨・越中の国境の山間部で、真宗のお寺が殆どありません。けれどもお念仏を称える真宗門徒が多く、村々には必ずお念仏の集会所である道場があって、人びとは、この道場を中心に、お念仏の生活をしていました。かつて民俗学者、柳田國男がこの道場のありさまを、「毛坊主」として紹介しました。
頭を剃っているのが坊主なのに、髪を伸ばしたままで、坊主の仕事をする、それが「毛坊主」です。俗人の姿で僧侶でもあります。頭を剃った坊主がいませんから、お寺がありません。ですから、村の人びとは、お念仏の集会所である道場に集まり、日々の仏前のお参りも、俗人が勤め、葬式も法要も、毛坊主が導師でした。俗人の信徒と僧侶が分かれていないということですから、僧俗一体未分離、ともいえますし、あるいは親鸞聖人の非僧非俗、という言葉を借りてもいいでしょう。村の人びとは道場に集い、お念仏を中心に生活を営んでいましたから、これを地域信仰共同体と呼ぶことにします。教如上人は地域信仰共同体に守られて、村々を秘かに廻られたのです。逆に言えば、教如上人は道場によってお念仏する人びと、そのような門徒衆に出遇われた、といっても良いでしょう。
その地域信仰共同体の人びとは、一向一揆を起こし、石山の戦いには本願寺に馳せ参じて篭城し、合戦し、殺し合いの場に臨みました。お念仏しながら、そのお念仏を守るために、阿修羅となって生きねばならなかったのです。そのような門徒衆に、教如上人は出遇われたのです。この人びとに、どうしたら応答することができるか、権力者や親に逆らっても、成し遂げねばならないという思いが教如上人に沸き起こったに違いありません。たとえ親に反逆してでも、慈悲の家本願寺の理念を守り通さねばなりません。阿弥陀如来は濁り切ったこの世である娑婆にはたらいて、人びとを「浄らかな信心」に至らしめ、そのままで、必ず救い取る、この如来の姿を、和讃書き添え十字名号に表し、また聖典の文言を掛け軸にして、人びとに示されたのだ、と考えています。石山合戦で、そして諸国巡回で、教如上人が出遇われた門徒衆の姿、その願いへの応答が本願寺別立の原点になりました。