おはようございます。今朝もまた、前回に続いて、教如上人の理念を考えます。その理念は、『浄土文類聚鈔』という親鸞聖人の著書に基づいている、ということをお話いたします。
和讃書き添え十字名号という、教如上人の独創になる掛け軸が制作された、と前回に申しましたが、もう一つ、教如上人の独創にかかる掛け軸があります。二幅対になっていて、一行に十字の漢文が二行に書かれ、末尾に教如上人が花押という署名を添えておられます。前回申しました大阪の八尾別院や、大分県の善教寺に所蔵されています。それらは、和讃書き添え十字名号を真ん中にして、その両脇に掛けられて、三点セットになっています。滋賀県の五村別院にも所蔵されていますが、ここのものは十字名号がなく、漢文二幅のみです。
書かれていますのは、親鸞聖人の著作であります『浄土文類聚鈔』という書物、そこから抜き出された言葉です。少々難しいのですが読んでみます。第一幅には、「論主、広大無碍の浄信を宣布し、あまねく雑善堪忍の群生を開化せしむ」とあります。第二幅は、「宗師、往還大悲の回向を顕示して、慇懃に他利、利他の深義を弘宣せり」とあります。読み上げただけでは、難しくって、何が云われているのか分かりませんので、もうすこし砕いてみましょう。
第一幅は、論主と呼ばれた天親菩薩、真宗の教えを開かれた七人の高僧の二人目で、親鸞聖人が正信偈という信心の歌の中で、「天親菩薩造論説」と讃えられました、その天親菩薩が、「広大無碍の浄信」ということを、私たちに広められたといわれるのです。「広大無碍の浄信」とは、広く、大きく、さわりなき、浄らかな信心、お浄土の「浄」の字と、信心の「信」の字、合わせて「浄信」です。「広く、大きく、さわりなき、浄らかな信心」、これを明らかにされたのが天親菩薩だといわれるのです。
考えてみて下さい。広く、大きく、さわりなき、浄らかな、信心、そんな信心を私たちが持てるのでしょうか。私は、煩悩まみれの身であり、その信心は泥まみれの信心です。阿弥陀如来は、泥まみれの信心しか持てない私たちを憐れに思われました。第二幅に「往還大悲の回向を顕示して」とありますのは、阿弥陀如来が私たちを浄土へ導き、またこの世に現われて、大いなる慈悲を差し向けられて、泥まみれの信心を、そのままで浄らかな信心に転じられた、そう説かれたのが七高僧の第三の曇鸞大師であった、という意味です。私たちの泥まみれの信心が、阿弥陀如来から差し向けられて、「浄らかな信心」、つまり「浄信」に転じられた、これがこの二幅に示された言葉の意味なのです。
「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」と称えられるのをお聞きになったことは、ありませんか。一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生れんことを願う、という意味です。天親菩薩が書かれた『浄土論』という書物の言葉です。ここに「尽十方無碍光如来に帰命する」とあって、教如上人が尊重された十字名号へ帰依することで、往生を願うと言われているのです。教如上人が『浄土文類聚鈔』から選んで、二幅に書き出された言葉は、帰命尽十方無碍光如来の仰せに従えば、阿弥陀如来の清浄真実の信心が差し向けられて、私たちが「浄信」という姿になる、このように語られている言葉なのです。
如来は浄土に居座っておられるのではなく、この世ではたらいておられる、このはたらきが往相回向と還相回向という言葉で表されます。第二幅の「往還大悲」というのはこの往相回向と還相回向のことを意味します。教如上人は、帰命尽十方無碍光如来という十字のみ名を称えることで、煩悩の身がそのままで、如来からの信心が与えられて、必ず救われる、このことを明らかにするために、この掛幅を書かれたのです。これが教如上人の理念の原点だったのです。