ラジオ放送「東本願寺の時間」

犬飼 祐三子(愛知県 正林寺)
第二回 幸せ音声を聞く

 今朝は「山のあなた」という詩にふれながらお話させていただきます。
 この詩はカール・ブッセというドイツの方が書かれ、上田敏さんが訳詩をされております。その冒頭に「山のあなたの空遠く/幸住むと人のいう/ああわれ人と尋めゆきて/涙さしぐみかえりきぬ」と幸せを追いたずねる人の姿がよまれています。とても有名な訳詩ですので、お聞きいただいておられる方の中にもご存知のお方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。この詩は美しくもの哀しい響きと共に、私達の持っている幸せへのあこがれをうたっている、私が大好きな詩のひとつです。
 人間は昔から幸せを追い求める存在です。少しでもよくして幸せになりたいという願いが文明を発展させてきました。豊かになれば幸せになれる、自分の思いが叶えば幸せになれる。より良く、より便利に、より快適にと人々は走ってきたように感じます。
 でも、そのことが本当に幸せとなってきたのでしょうか。今の世の中を考えてみますと残念ながら違うように感じます。私達の生活はどんどん変わってきています。人間の基本的生活の場である家庭でも、洗濯、掃除、食事というすべての場において人の手を省くことが第一に考えられ、今はそういう点においては家事が楽になりました。また家にいながら世界の情報がインターネットを介して手に入ったりコンピューターのマウスをクリックするだけで欲しい物が送られてくるというとても便利な世の中になりました。
 そのような私達のあり方は、先ほども申しましたが本当に幸せと言えるのでしょうか。前に人がいてもその人とメールで会話をしているという話もききますし、メールだけでお友達になり相手のことを知ったつもりになったり、と本当のものや本当のことがわからないのにネットの中の情報のみで知ったつもり、行ったことがあるような錯覚をおこしたりすることもあるようです。そういうことを私たちは理想としてきたのでしょう。
 仏教では六道輪廻ということがいわれます。私達は六道という、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、という六つの世界を生まれかわり死にかわりしているといわれます。地獄から人までは生まれかわりということがわかるような気がするのですが、この六道には天が入っています。この天という世界は私の思いがすべて叶う世界だそうです。けれどもその天は六道の中のひとつ、まだ迷いの中なのです。自分の思い通りになる世界は本当の幸せではないと指し示してくださっています。
 この六道の中にいるということは、親鸞聖人の教えのお言葉の中にある“無明の存在”ということです。「むみょう」とはあきらかでないと書きます。自分では何もわかっているといっても本当は何もわかっていない。
 「山のあなた」に「ああ、われ人と尋めゆきて/涙さしぐみかえりきぬ」とありますが、実は幸せのもっている本質がわかっていないのです。私達は幸(さいわい)を求めているといいながら、自らの思いをふくらませ、仏教の中の三毒、三つの毒のことですが、そのひとつ“貪欲”こちらは欲を貪ると書きますが、その“貪欲”というあり方をしているのです。世の為と思いキュリー夫妻はラジウムを発見しました。その後の世の人がそこから原子爆弾で人間を無惨に殺す道具とすることや、人が住むことができなくなる場所をつくるとは思いも寄らないことだったでしょう。
 私達の愚かさは、自分の都合に合わせて利用することにあります。何の疑問ももたずに発展していると思っていますが、人間の心は決して清くはありません。よくしていこうという思いが迷いをより深くしていきます。
 親鸞聖人は自らのことを愚かであると自覚し、“愚禿”と名乗っておられます。愚かというのは、本当のことがわからない、見ることができないということを深くうなずいて、そのことをうなずいてもどうすることもできない煩悩がこの身に満ち満ちた存在、“真実・まことということがない凡夫の姿”を仏さまの教えのまことの前に身をすえ、聞きつづけてくださったのです。
 人間の身である私に真実がなければ、求める“幸せ”というものも、必ずゆがんだものとなっていくのではないでしょうか。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回