ラジオ放送「東本願寺の時間」

犬飼 祐三子(愛知県 正林寺)
第四回 報恩講音声を聞く

 11月の21日から28日まで、京都の東本願寺では報恩講という、真宗の信者である門徒にとって一年で一番大切な行事が勤められます。この報恩講は宗祖親鸞聖人のご命日にあわせてお勤めされる法要です。
 2011年の東日本大震災の年には、親鸞聖人の750回の御遠忌法要が勤められました。ですから今年は752回目の法要になります。
 通常、私達が先祖をご縁としてお勤めする法要は長くて50年までです。よほど長くてもせいぜい百年程度でしょうか。それが752年前という、自分の先祖であってもわからないようなはるか昔の方の、それも私とは血のつながりのないお方の法要をなぜお勤めするのでしょうか。
 毎年、私共のお寺でも報恩講をお勤めさせていただくのですが、小学校の頃に「報恩講って何?」と聞いたことがあります。答えは「一年で一番大切な行事だよ。」というものでした。「へえー、そうなんだ」とうなずきながらも、私にとっては一年で大晦日以外で夜遅くまで起きて家族で本堂のお荘厳、これは法要にあわせて本堂の中をお飾りすることですが、私や妹も一緒に手伝うことができる楽しい行事でした。暗い本堂が一年で一番華やぐ、そういうイメージがありました。当日はお参りされる方は、着物に紋付きの黒羽織という正装でした。
 東本願寺の視聴覚ホールで東本願寺を紹介するビデオが上映されているのですが、その中で報恩講のご満座という最後の法要の日の朝、開門を待っていらっしゃる方が「報恩講にお参りをすることで新たな一年が始まる」ということを仰っておられました。それをお聞きして、この法要は今年一年、私がどのように過ごしたのかを親鸞聖人のお姿をあらわしたお木像をご真影、まことのかげと書きますが、その前に身を置いて、教えに照らして自らを問うという場なのだといただきました。
 私達の生活はたえずこの世の出来事にふりまわされています。2011年3月11日、約9ヶ月にわたる行事が計画されていた親鸞聖人の750回御遠忌の開始直前に未曾有の大災害といわれた東日本大震災が起こり、地震に対する、また福島第一原発の爆発によって人間の驕りというものが浮き彫りになりました。私達の生活もこのままではいけない、皆で本当に大切なものは何かを見直していこうということが大きく叫ばれるようになりました。
 けれども、国のあり方はすぐに経済至上主義ともいえる元々の路線にもどっていってしまいました。そして、震災にあわれ、今も悲しみ苦しんでおられる方々を置き去りにしたまま、また元の生活にもどっていこうとしているという現実があります。復興は進んでいないのに、さも進んでいるかのように錯覚をしながら、私自身も元と変わらない生活に戻ろうとしているのです。
 そのような私のあり方がどういうものであるのか、その事を親鸞聖人の教えが示してくださっています。
 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかりはらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらずきえず、たえずと」
 凡夫というのは、迷いの元となる煩悩が私達の体いっぱいに満ちて、欲も多く、いかりや腹立ち、うらんだり憎む心が多く絶え間なく命終える最後の意識に行き着くまでとどまることも消えることも絶えることもない、という意味です。
 この“凡夫”というのは、仏様が人間に対して呼びかけてくださる“呼び名”です。その凡夫という存在は人間である限り一人もその名からもれることはなく、いつも仏様からそう呼びかけられています。その凡夫と呼びかけられている私は、たえず煩悩というものに満ち、自分は善くて他人は悪いという考えを持っていることにさえ気付かずに日々を過ごしているのです。親鸞聖人という方は自らも凡夫の一人であり、自分の力“自力”では救われることのない身と仰っているのです。
 報恩講とは一年に一度、ご真影の前に身を置かせていただき、念仏申し、日ごろの私のあり方を仏様の視点を通して見つめ直させていただく場なのではないでしょうか。

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