ラジオ放送「東本願寺の時間」

犬飼 祐三子(愛知県 正林寺)
第六回 縁をいただく音声を聞く

 現代は関係性が希薄になっていると言われます。私が幼い頃は、感覚的にご近所がもう少し近かったように思えるのです。外に出ると、台所仕事の包丁の音や話し声などが道まで聞こえてきて、何となくほっとしたものです。でも、残念ながら今は家の建て替えが進み、道を歩いていてもそのような音が聞こえることはなくなりました。
 その流れは当然のように個人のプライバシーを尊重する風潮を加速し、自分だけの生活を守ることが何よりも大切なこととなって、日本の本来もっていた性質を根元から崩しているように感じます。家族でも“個”、個人の個です、それが当たり前になってきています。
 随分前にお聞きした話ですが、あるご家族が小さな長屋住まいの時はとても仲が良かったそうです。けれども家を建てられた途端、自室で過ごすようになり、皆で話をしなくなったと寂しそうに仰っておられました。
 私達はより便利により快適にと生活を向上させているつもりでいますが、便利さ快適さを目指したことで、人と人との関係を希薄にしているのではないでしょうか。そしてそのことにさえ気付いていないのです。それは必ず“良い方に向かっているはず”という自信が根底にあるのでしょう。誰もが進化することはよいことで、その状態でとどまることや戻ることをよしとしないのです。
 そのことは孤独をより深めていくのですが、やはり「孤独は寂しい」と人とのつながりを求める。できるだけ自分の都合に合う楽な“お友達”がネットの中や携帯の中の関係なのかもしれません。そのことが、表面しか見えない人や表面上の付き合いしかできない人が多くなっている要因なのではないでしょうか。
 でも人は、もっと深い縁を本当はいただいて生きているものなのではないかと私は思うのです。
 私がこの世に“いのち”を受けることができたという事実は、様々な縁が原因となっているからです。第一回でお話しさせていただいたように、祖母はとても辛く悲しい思いをしましたが、その祖父と結婚したことで父が誕生し私が今ここにいるのです。どこかでひとつ縁が違っていたなら、私がここにいることはありません。そんな縁が無数に、そして複雑に交差し今があるのです。そしてそのいただいた縁を私が今、生きさせてもらっているのです。
私自身この縁という言葉を使うのは自分にとって都合がよい時で、良い縁は縁として受け入れるというのが当然でも、悪い縁は縁とは認めない、という身勝手さがあります。けれども私が人と出遇う中で、たくさんの人生の大先輩や友人がそれぞれの悲しみ、苦しみ、迷いの人生を生きてくださっていることを知り、どんな縁でも大切な縁であったことを気付かせていただくことができたのです。そのことはそれぞれの方が私に先立ち悲しみ、苦しみ、迷いを縁として教えを聞いてくださっていたからなのです。
 そういった方々と出遇うことを通して出遇わせていただくのです。それは誰もが精神的大地を持っていて、私の苦悩が私だけのものではなかったということを改めて教えていただく大切な場でした。私がそれまで大切だと思っていたのは、自我を中心とした思いで、そのことが破られていったのです。
 真宗の教えは私達に仏教の永い歴史を伝えてくださっています。親鸞聖人ご自身が縁によって教えに出遇われその教えを生涯大切に聞き続けてくださったこと、人間の本質と向き合いながら教えを聞き“南無阿弥陀仏”とお念仏申されながら人生を終えていかれたことが縁となり、私に教えを聞けとうながし続けてくださっていることを感じます。
 六回にわたり大切なお時間をご一緒させていただきました。ありがとうございました。
 最後に私の作った詩を朗読して終わらせていただきます。

   「 縁 」
  かなしみをなかったことにしないで
  悩み苦しんだことを
  すべて消してしまおうと思わないで
  それは あなたの一部で
  それは あなたのすべて

  一瞬 一瞬が 今のあなたをつくり
  あなたの生きる大地となっている

  善いことばかりがすべてじゃない
  勿論 悪いことがすべてでもない
  何もかもがひとつになって
  今の私を そしてあなたをつくっている
  そして 私とあなたが出遇う

  この先も 時の流れとともに
  新しい私が
  新しいあなたが
  生まれつづける
  こわがらないで
  ちゃんと私を照らす光があるから
  少しずつ 少しずつ
  迷いながらでいいから
  私を そしてあなたを
  私の過去を あなたの過去を
  受けとめて

  それは きっと
  あなたの生きる力になる

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