今回も報恩講をテーマとしていただいていきたいと思います。
私達真宗の信者である門徒は、前回もお話しさせていただいたように、報恩講という場をとても大切にいただきます。本願寺第八代の蓮如上人を慕い、教えを聞かれたご門徒の中に、富山・五箇山の“赤尾の道宗”という方がおられ、毎年かかさずご本山の報恩講にお参りをされたそうです。そのような距離を苦とすることもなくお参りされたことを知り、私自身、近い所に住んでいながらも報恩講にお参りすることが出来ない時もあり、忙しいことを言い訳にしてしまうことを恥ずかしく思うのです。
“遠いところを”とお聞きしてもうひとつ思い浮かぶのは『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人が仰ったというお言葉です。
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
“あなた方が十数カ国の境を越えて、自らの身体やいのちのことを案ずることなく、ここまでおいでになった理由は、ひたすら極楽浄土に生まれる道を問い尋ねようとするためでしょう。”という意味です。
このお言葉は、遠く関東の地から、親鸞聖人に教えを確かめにこられた方々に向かって言われたお言葉です。
親鸞聖人は越後へのご流罪を赦された後、京へお帰りになるまでの二十年あまりの年月に、関東の地で念仏の教えを広められたと言われております。親鸞聖人がお帰りになられた後、教えを聞いておられた方々の中で、「本当に念仏ひとつでたすかるのか」という疑念がわきおこり、はるばる京の地までそのことを確かめにこられたのです。
関東におられた時は近くで教えを聞くことができ、少し不安があっても、お目にかかりお話しいただければ、その疑念もとりあえずは払うことができたのでしょう。けれども親鸞聖人が京へお帰りになられると、当然そういったことはできなくなります。「信じる」ということが揺らぐのです。だからこそ自らの身、そしていのちをかけて京へたずねて行かれるのです。
私たちも日常の中で「信じる」という言葉を使うことがあります。宗教的な言葉で言えば「信心」といいます。よく「あの人は信心深い」とお聞きしますが、どういうことかをお聞きすると「よくお寺や神社にお参りされるから」ということだそうです。どこにでも手を合わせることが信じるということだと思っておられるようです。
親鸞聖人は人間にはまことの心はない、と言われます。そのような人間に、「真実の信心」が起こるはずはない。非常に厳しいお言葉です。
教えを聞き初めた頃、「そんなことはない、根拠はないけれど、ちゃんと人を信じる心が私にもあるはず」と思っていました。そのことをある先生が、「本当に?本当にあるんでしょうかね」と問うてくださいました。「人間の心はそんなに確かですかね」と。
私の心は確かなのかと問われた時、否定しながらもふと、とても確かではない私の姿が浮かびあがりました。日頃の生活の中でも人を信じることはとても大切なことだと思ってはいますが、実は何かあると不安になり信じられなくなることがあります。そんな私にどれほどの“真実”があるのかと考えた時、ハッとしました。
「教えを信じています」と言いながらも、ただすがりたいだけではないのか。信じるという言葉で自分の疑いをごまかし、迷っていることを認めずに、何を中心としているかもあいまいにしている私は、どこを取っても確かではありませんでした。
確かだと思っていたことがゆらぎ崩れていく。そんなことを思っていると先生のお言葉が続きました。「人間にはそんなものはないんです。だから念仏をするんです。」そのときは仰っていただいたことがわかりませんでした。けれど、わからないからこそ私はその問いを持って教えを聞き、親鸞聖人のお姿の像、ご真影の前に座らせていただくのです。
ご真影から「自分の足先が見えていますか」と問われながら報恩講にお遇いするのです。