ラジオ放送「東本願寺の時間」

五辻 文昭/岐阜県 本浄寺
第二回 どのように教えを聞くのか音声を聞く

 さて先回は「今、何故教えを聞くのか」について話させて頂きましたが、今回は「どのように教えを聞くのか」について確かめたいと思います。
と申しますのも、折角縁あって教えを聞いていても、その聞き方に問題があると、聞いたことが聞いたことにならないということがあるからです。
教えの聞き方について、懇切丁寧に教えて下さったのは本願寺第八代住職蓮如上人ですが、「聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず、ややもすれば、法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころある」と、聴聞の誤りについて誡められた言葉があります。多くの人は仏法を聞いていても、それが自分の人生における根本の問題を解決するためとも思わず、ややもすれば、教えの言葉の一つも聞き覚えて、これを他人に聞かせることで、自分の名誉を高めて利益を得ようという心、即ち名利の心があるとのご注意です。
ある高名な僧侶がお話に行った先で、法話が済んで座敷で休んでいたら、その家の姑がおしぼりを持って入って来て、「本日は本当に結構なお話をありがとうございました。今日のお話は、さぞかし嫁にはこたえたと思います」と挨拶して部屋を出て行くのと入れ違いに、お茶を持って入ってきた嫁が、「ありがとうございました。今日のお話、さぞかしお義母さんの耳には痛かったことと思います」と言ったという笑い話のような話がありますが、あながち作り話とは言えないのではないでしょうか。私たちの聞き方も、いつのまにか我がためにではなく、他人事になっているのではないでしょうか。
しかも、他人事に聞いている心は、「うりごころ」と蓮如上人がおっしゃったように、物を売って得しようという、功利、即ち自分に利益になることを求める心に他なりません。それはまた、自分にとって都合のいいこと、役に立つことは認め受け入れるけど、都合の悪いこと、役に立たないことは認められない、受け入れられない、否、排除さえしようという心でありましょう。その心で聞く限り、教えは聞こえてきません。
人間の常識から言えば、功利を求める心は、むしろ当然だと思われている心でしょうが、しかし人間は、その心で苦悩しているのではありませんか。
人は生まれた限り、やがて老いや病い、そして死を迎えます。しかも、その老いや病い、そして死を苦と感じて生きています。けれども、本来、老いや病い、そして死そのものが苦なのでは決してなく、それを苦と感ずる私がいるということに他なりません。
私自身の内にある、老いや病い、そして死を都合の悪いことと受けとめさせる功利の心が、老・病・死を苦と感じさせているのでしょう。
「いのちの事実に気づかぬ者たちは、自分自身、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人が老い・病み・死ぬのを見ると、自分のことは見過ごして、とまどったり忌み嫌ったりしている」と「アングッタラ・ニカーヤ」という経典にあります。
北陸の念仏詩人浅田正作さんは『念仏詩集 骨道を行く』の中で、「聞いて 覚えて 間に合わそうとする 根性が お陰さまをよろこぶ 邪魔をしている」(『念仏詩集 骨道を行く』1988法蔵館発行)と、教えを聞きながら、いつのまにか功利の心でしか聞いていない自分自身を深く省みて詩っておられます。そうした自分の姿をこそ、本願念仏の教えに徹底して聞いていくことだけが、功利の心に縛られて苦悩する私たちのあり方を解放する唯一の道かと思います。

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