ラジオ放送「東本願寺の時間」

五辻 文昭/岐阜県 本浄寺
第六回 生きる意味音声を聞く

 今回は親鸞聖人の教えに、「人が人として生きる意味」を尋ねて参りたいと思います。
真宗大谷派の住職松扉哲雄さんという方が出された「深く生きる」(1984東本願寺出版)という本の中に、ある老人が自ら命を絶ったとき残した遺書が取り上げられています。その遺書には、「私が生きられなくなったのは、食べるに食べ物がないからではない。着るに着る物がないからでない。そうではなくて、私の心の底の底まで見通すもの、人生の底の底に裏切らない愛、この二つが見つからないから生きていけなくなった」と書かれていたということです。この遺書が意味するものは、「生きていることの意味」をどこにも見つけることのできない苦悩を物語っているのでありましょう。
人は病を得たとき、あるいは老いを迎えたときなど、「他人の世話になってばかりで、生きているのがつらい」とか、「何故自分ばかりこうなんだろう」と悩み、あるいは、「こんなことで生きている意味などあるんだろうか」という問いに苛まれます。年配の方と話していると、「長生きするのはいいが、惚けたり、寝たきりになったら、生きている意味はない」という言葉もよく聞きます。とりわけ現代のものの見方、考え方がその事に拍車をかけているように思われます。
この春、十数年ぶりに大学時代の友人に会いに行きました。 彼の寺で数時間話し、その寺の門を出るときでした。目の前にはキャベツ畑が広がっていました。そのキャベツ畑を指して、「あのキャベツは収穫せずに、時が来たらトラクターで踏みつぶすんだ」と彼が言うのです。立派なキャベツです。「どうしてそんなことをするんだ」と聞くと、「収穫して市場に出しても、結局赤字になってしまうから」と答えました。儲からないキャベツは商品価値がないということでした。またこの地域はキュウリを温室栽培しているが、真っ直ぐで長さがそろったキュウリでないと商品価値がないから廃棄されるのだとも言っていました。命ある野菜にまで、その命を見ないで、まるで工場で生産される工業製品同様に物差しを当てはめ、価値のあるなしを決めてしまいます。
現代という時代は、野菜に止まらず人間にまで善悪、損得、間に合う・間に合わない、役に立つ・役に立たないといった物差しを当てはめ、若くて健康でバリバリ働ければ価値があるし、年を取って何も出来なくなったら、まるで人間としての価値がないかの如く見られて、片隅に追いやられてしまう、そんな風潮がいよいよ強くなってきているように思われてなりません。年を取って充分な労働ができなくなっても、あるいはたとえ全ての機能を失って寝たきりになっても、人間として生きる意味や価値は、健康な人と何ら変わらないということが発見できなければ、いよいよ息苦しいことでありましょう。そうした「生きる意味」の発見は、「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」(アミダの本願には、老人だから駄目だとか若者だからいいのだとか、あるいは善人だからいいとか悪人は駄目なのだとかいう差別は一切ない)と親鸞聖人がいわれるように、すべてのものを等しく認め、受け容れて下さる本願との出遇いによってこそ、実現するものであります。本願の用きによる救いとは、現代社会にどんな意味を持っているのか、改めて考えてみますと、形なき本願は、光明とナムアミダブツという名告り即ち名号という形を持って、私たちに用きかけます。名号は名告りであり呼びかけなのであります。光を伴ったその呼びかけに出遇うことで、この身の真実を見る眼、全ての存在を生かしめているいのちの叫びを聞く耳、そして見えた、聞こえた真実を語る口が与えられるのでありましょう、声高に主張するのでなく、どんな権力者に対しても真実を語る人を生み出すのでしょう。声高に叫ぶ声だけがまかり通ってしまう時代にあって、静かに真実を語る人の誕生こそ待たれているのだと思います。

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