ラジオ放送「東本願寺の時間」

五辻 文昭/岐阜県 本浄寺
第三回 何を教えに聞くのか音声を聞く

 先回教えの聞き方について、蓮如上人のお言葉に基づき、ひたすら自分の利益になることを求める功利の心で聞くことの誤りを確かめさせて頂きましたが、非常に大切な問題かと思われますので、いま少しその事に触れておきたいと思います。
念仏詩人浅田正作さんは、「聞いて覚えて間に合わそうとする根性」と功利心を表現されました。「聞いて覚える」とは、一つの答え、結論を求めようとすることです。答え(結論)を得ることで、私たちは何か教えが分かったような気になります。「間に合わそう」とは、現実に起こってくる様々な問題にその答えを当て嵌め、問題の解決を図ろうとする姿勢でありましょう。しかも一端得た答えを握りしめると、容易に放そうとはしませんし、その姿勢が、実は私たちをいよいよ真実から遠ざけるということに気づきません。
そうした背景には、○×で答えを求める、あるいは白黒、善悪の答えを短兵急に求めようとする現代社会のあり方が、その一因になっているのかもしれません。
本願寺第八代住職蓮如上人は、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり」とおっしゃっておられますが、私たちが教えを聞き答えを持つことで、いつの間にか物知り顔の賢い者になって、真実から遠ざかっていくことを誡められました。
また、教えが分かったつもりになると、教えを聞く新鮮な驚き、感動を失っていくのでしょう。 蓮如上人が引かれた、「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば 鳴子にぞのる」という歌があります。
今日ではあまり見かけなくなりましたが、昔はたわわに稲穂の実った田圃に、稲を啄みに来る雀を追い払うための鳴子が設置してありました。
初めのうちこそ、鳴子の音に驚いて逃げていた雀たちが、いつの間にかその音になれると、その鳴子の上に平気で止まっている光景を譬えとして、教えに遇いながら、驚き、感動する心を失っている、私たちの教えを聞く姿勢を指摘して下さったものであります。
教えが分かったつもりになることで、実は、教えを聞くということが、如何に容易ならざることかを知らず、いつのまにか当たり前のことになっていくことは、人が人として生まれること、私が私としてこの世に生まれたことが、如何にただならぬことかを忘れ、いま生きていることが当たり前のように思ってしまうことと別のことではありません。
法句経に「人道に生ずるを得るは難く、寿を生ずるは亦得難く、世間に仏有るは難く、仏法は聞くことを得難し(人間として生を受けることは困難であり、永遠のいのちを得る事は容易ではない。もろもろの目覚めた人が世に出たもうことは得難いことであり、正しい教えは聞きにくいものである)」との一文があります。
宮澤賢治は、「風の中を自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円か(お金)を手伝えるというようなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです」(校本宮澤賢治全集第十三巻)と、亡くなる十日前の手紙に書いています。
過日、東本願寺の研修施設である同朋会館の廊下で、こんな言葉に出遇いました。「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んだ者があれほど生きたいと願った明日」昨日死んだ人が、生きていたいと願って生きられなかった明日を、私は今日として生きている。それなのに、それほど掛け替えのない今日一日を、掛け替えのない一日として、私は驚きや感動、あるいは喜びを持って生きているのかと問い掛けられたことでした。
今回「何を教えに聞くのか」との講題を掲げましたが、教えを聞くことも含め、私たちが当たり前にしていることすべてが、実は当たり前でなかったという事実を、教えに聞くことの大切さを改めて思います。

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