繰り返し教えの聞き方について確かめてきましたが、教えを聞くということは仏道即ち真実に目覚めた人になる道を歩むことに他なりません。ですから、教えの聞き方を問うということは、どの方向に向かって仏道を歩むのかを問うことです。歩む方向によって、真実に出遇うか出遇わないかが決まって参ります。
一般に了解されていますのは、仏道を歩むというと、様々な修行を積んで自分を磨き、自分を向上させることのように思われているのではないでしょうか。それは聖なる者への道でありましょう。どこまでも高みを目指して、上っていく歩みです。
ところが、親鸞聖人が顕らかにされた浄土真宗は、本願の仏道ともいわれますが、その向かうべき方向は、決して高みを目指して上る道ではなく、自分を深く掘り下げ、底の底に真実の自分と出遇って行く道であります。聖になるのでなく、底下の凡夫、即ち最も愚かなものとしての自分を発見する道です。
そのことを教えられた出来事があります。随分以前になりますが、真宗大谷派の住職であった訓覇信雄先生が指導されていた、真宗の教えを学ぶ会でのことです。中年の男性がこんな体験を語られました。
「先日、村内の家の新築祝いに招かれました。宴会も終わりかけ、さあ立とうと思って膝下を見てハッとしました。一度に酔いが覚めるような気分でした。真新しい畳が焦げているのです。酔って気づきませんでしたが、吸っていた煙草の火が落ちて焦がしたのです。どうしようかと迷いました。すぐ誤ろうか、黙って帰ろうか。もし正直に言ったら、この家の主人がどんなに怒るだろう。その顔を想像すると打ち明けることが出来ませんでした。みんな酔っぱらっていたのだから、誰がやったか分からないのでは。そう思って家に帰りました。しかし、帰っても気になって仕方がありません。それで、再び先方に出かけていって正直に打ち明け、詫びました。長年仏法を聞かせてもらっておりながら、まだ自分の失敗を誤魔化そうという根性が廃っていないことに気づかされました」と。
それを聞かれた訓覇先生が、厳しく言われました。
「お前は長年仏法聞いてきたと言ったが、お前の聞き方は、例えば炭団を、川の水で洗って真っ白にしようというようなものだ。炭団を洗ったら白くなるか。どれだけ洗っても真っ黒でないか。お前は人を誤魔化すような根性がまだ残っていたと言ったが、その根性はお前の心の一部か。そうでなくそのお粗末な根性だけで出来上がっている自分だったと聞いてこなかったのか」と。
昔、暖を取るために炭の粉を丸い玉のようにして固めた炭団は、炭で出来ているので、中まで真っ黒で、いくら水で洗ったからと言って白くなるものではありませんでしたが、私の心を炭団に譬えて教えて下さったものであります。
親鸞聖人は八十八歳の時、御門弟への手紙の中に、法然上人の、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(お念仏の教えに生きる人は、自らの愚かさに目覚めることに於いて、本願の救いにあずかるのです)と言うお言葉を、五十年以上も前のことでありながら、まるで昨日聞いたかのように書いておられます。そのお言葉は、忘れようにも忘れられない、耳の底に残った大切な、しかも鮮明なお言葉として受けとめられていたに違いありません。その言葉は、本願の仏道が、賢い者になる道ではなく、愚かな愚かな自分に目覚めていく道だと、その歩むべき方向を明確に示して下さったものであります。
道を行くとき、その方向が間違っていると目的地に到達できないように、折角仏道を求め、仏道を歩みながら、その方向が間違っていると、本当の救済が実現しないのだということを確かめさせて頂くことです。