親鸞聖人の教えをご一緒に学んできておりますが、その教えは親鸞聖人のお言葉を、お弟子の唯円が記録した『歎異抄』にありますように、「親鸞におきてはただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(私親鸞におきましては、ただ念仏してアミダにたすけていただこうと、よきひと法然上人の教えを受けて信ずるほかに、特別の理由もないのであります)とか、「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(アミダの本願力の、本当のお心を明らかにしているすべての教えは、いずれも本願を信じ念仏を称えれば目覚めた人(ブッダ)になる)と、本願念仏の信による救済、本願の用きによる救いを示されました。今回は親鸞聖人がどのように人間を見詰めておられたのか、その人間観を確かめたいと思いますが、そのことは、親鸞聖人の本願による救済の意味を学ぶことと、決して別のことではないからです。
ところで、今から三十年ほど前でしょうか、あるテレビ番組を見ました。その中で興味深い問いと答えがありました。「この地球という様々な生命の住む星、いわばいのちの星にとって、人間とはどのような存在か」という問いと、それに対する「人間とは、地球にとって癌細胞のようなものだ」という答えでした。
公害、戦争、民族紛争等によってあらゆるいのちが傷つけられ、奪われていく。あるいは無縁社会といわれるような、人と人、人と自然、さらに人と物、あらゆる関係を引き裂き、いのちが生きられる環境を奪っていく。そうした人間の有り様を思うとき、増殖することで身体の正常な機能を奪い、死に至らしめる癌細胞に等しいのが人間だという指摘は、決して間違いだと否定できません。
またその番組の中で、ニューヨークの動物園に「世界で一番恐ろしい動物」という表札のかかった檻があり、覗き込む人の姿が、中に立てかけられた鏡に映るという話が紹介されていました。なかなか興味深い話で、人間という存在の有り様をよく表していると感じました。
現代という時代社会の抱える様々な問題、またその根っこにある問題について、親鸞聖人の教えを深く頂いておられる作家の高史明先生は、「人知の闇」という言葉で言い表されました。その「人知の闇」とは、親鸞聖人の「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり(善悪の区別ばかりでなく、善悪の文字さえ知らない人はかえって嘘や偽りのないまことの心で生きているのに、善悪の字を知った顔をしている人は大うその姿であります)という歌がありますが、「善悪の字しりがお」こそ、「人知の闇」を言い表しておられるのだと教えて下さいました。
善悪を知るのが人知、即ち人間の知恵、知識でありましょう。ところが「しりがお」とは、知ったか振り、つまり本当に知っているわけでもないのに、あたかも知っているようなふりをしていることに他ならず、闇を闇と知ることもありません。
その人知は、現代社会に物の豊かさと便利さ、そして快適さをもたらしましたが、一方で、もはや人知では解決できない程の深刻な問題も生み出しているのです。
「善悪の字しりがお」と言い当てられた「人知の闇」に生きる人間、しかもその闇に生きることで苦悩する人間の根源的要求に応え、真実に生きる光の道に立たしめる本願の用きを、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」と親鸞聖人は顕かにして下さったのでありましょう。