ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
いきるということ [2005.7.]音声を聞く

おはようございます。6年後に親鸞聖人の750回御遠忌を迎えるにあたり、御遠忌テーマが発表されました。「今、いのちがあなたを生きている」です。このテーマを受けて、6回、お話をさせていただきます。
1回目の今日は、私達が生きているということを、どう感じとっているのかを、私が通ってきた時代背景の中から、見ていきたいと思います。昭和16年、第2次世界大戦、そこでは、天皇にいのちを捧げることが生きることでした。4年後の昭和20年からは、敗戦という混乱の中で、みんな自分たちの食べることに全精力を注ぎました。ここでの生きるとは食べることでした。そして少しずつ落ち着いた生活ができるようになりました。ここでの生きるとはこつこつと働くことでした。日本が高度成長の時代に入ってからは、幸せの三種の神器として、テレビ、冷蔵庫、車を各家庭で持つようになりました。生きるとは、アメリカのホームドラマに出てくるような生活をすることでした。みんな、アメリカに追いつけ追い越せを目標に頑張りました。事実、戦後の目ざましい復興の様子は、海外からも驚きの目で見られています。日本人として、長い歴史の中で培われた勤勉さと、粘り強さのお陰なのでしょう。しかし、その裏には、軍需産業という、外国の戦争を利用して、経済的に大きく飛躍したのも事実です。敗戦を体験し、誰よりも戦争のおぞましさを知っているはずなのに、他国の人々の大きな苦しみや悲しみの上に、私達の豊かさが成り立っていたのです。この頃の生きるとは、人のことなどどうでも良く、唯、競争に勝ち抜いて、高収入を得て、人より裕福な生活を手に入れることだったのでしょう。勝つことが支えになりますから、いつも他人に対して優越感を持っていないと不安になります。自分より弱い立場の人をつくる為に、卑屈ないじめが子ども達の中でまかり通るようになったのも、競争原理が生み出してきたものでした。しかし、その高度成長も、時代の流れの中であっけなく泡となって消えてしまいました。進歩、発展という生きる支えが、根こそぎもぎ取られてしまったのですから大変です。「こんなことが起こるんだ。いったいこれから、どうなるんだろう」終身雇用制度など、それまで当たり前と思ってきたことが見直され、社会の機構がどんどん変化する中で、私達は、先々の不安と共に暮らすことになりました。生きるとは、不安そのものです。
また、平均寿命が延びてきた今日、定年退職後をどう生きたら良いのか分からないと、悩む人の話も、よく見聞きします。仕事が生きることだった人は、ここからまた、生きる支えになるものを見つけようとします。そうした人々をサポートする為に、地域では生涯学習として様々なカルチャーが開かれています。それで間に合っていれば良いのかもしれませんが、身体が不自由で、思うようにならなくなった時は何が支えになるのでしょうか。
今私は、昭和16年から平成17年の64年間をざっと思い起こしてきました。私達は、その時々を一生懸命に生きているつもりでしたが、生きるという意味あいは、その場面場面によって、くるくると変わるものだと見てとれます。これで一生が終わってしまうのかと思うと、何かつまらない気がします。この空しさを感じるのは、私の頭ではなく、いのちからのうながしかも知れません。三帰依文の冒頭に「人身受けがたし」とあります。人として生まれることは、とても難しいことだと言っています。しかし、私達は現に生まれています。せっかく、生まれさせていただいたのですから満足したいものですね。こうしてみると、私達の頭で考える「生きがい」と、いのちが願っている生きがいとは、違うもののようです。そこで私は「生きがいや生きる意義の為に、生きるのではない。生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」と考えてみたいと思いますがいかがでしょうか。

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