ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
役に立つということ [2005.7.]音声を聞く

おはようございます。前回は「あえて、生きがいを見つけなくても、生きているだけでねうちがあるのではないか」とお話をしました。しかし、私達は、何かの役に立たないと意味が無いと思ったり価値がないと思ってしまいます。表面だけ見ると、そうした答えが出てきます。が、それならば赤ちゃんはどうでしょうか。周囲の人に、100%助けてもらってます。普通にいうところの役にはたっていません。しかし、赤ちゃんは、見る人の心をほっとさせてくれます。知りあいであろうとなかろうと、誰の心もなごませてくれるのです。あの弱々しい小さな体が、そんな、大きな仕事をしてくれるのです。又、反面教師という言葉が有るように、善良な人だけが役に立つ訳でもなさそうです。こうして、ごく、平凡な生活の中に、そして、私達の思いを超えたところに、役に立つということがあるようです。
20年位前のことですが、私にはこんな経験がありました。真宗寺院が経営している幼稚園と保育園の集まりに大谷保育協会というのがあります。ここで、研究部員だった時のことです。時折開かれる研究会では、講師の先生のお話を聞いたり、分科会に分かれて、日頃の保育や、子ども達の問題について話し合いをしていました。ところがある時、その分科会で、私は、園長先生達のグループに入ることになりました。園長先生達は真宗と保育の話をされていましたが、勉強を始めて間もない私にとってみると、初めて聞くことばかりです。「あー、そうなんだ。(えー、そうなんだ)」と感心するだけで、自分の意見を言う場などありませんでした。その研究会が終わって帰ろうとした時、事務担当の方が「お疲れ様でした」と言って交通費を差し出されました。研究会は研究部の仕事ですから、研究会がある度に、交通費は頂いていました。でも、その日、私は何のはたらきもしなかったので、「今日は、唯、勉強させていただいただけで、何の役にも立っていないので、交通費をいただく訳にはいきません」とおことわりしました。事務担当の方は「そう言わずに」と押し返えされます。私にしても、何も出来なかった思いがあるので、おことわりすると、「無用の用ということがあります」と言われたのです。私は初めて耳にする言葉でした。「ムヨウのヨウ?」「そう、無用の用」漢字にすると、問答無用の無用。そして用事の用です。私が役に立たなかった、立たなかったと言ったことに対して「役に立たない」という役の立ち方がある。そういうことのようでした。「役に立たない仕事」をしたというのなら、確かなことですから、納得して、私は交通費をいただいたのでした。そして、その時、それまでの研究会や打ち合わせ会などで、少しばかり発言をして、それで、役に立っていたと思っていたことが、急に恥ずかしくなりました。大変な、思い上がりだったのです。それ以来、「無用の用」という言葉は、私に勇気と元気を与えてくれるようになりました。
こうして、「役に立たなくても良いんだ」「それで大丈夫なんだ」と聞くと、「それでは、何にもしないで良いって言うことなの」「出来ない、出来ないって何にもしない人が増えたらどうするの」という言葉が返ってきそうです。何もしない人はずるいという思いが先に立つのでしょう。私達の頭は常に損か得かの算盤をはじいています。自分は、何も出来ない人にはなりたくないけど、人の分だけやらされることになったら損をするという答えがはじき出されているのではないでしょうか。
そういえば、子どもの頃、父親にしかられた言葉を思い出します。頼まれた用事をやりながら「私ばっかりが損をするんだから」とつぶやくと「損をするのが嫌なら止めなさい」と言われたのです。確かに損をするのは嫌です。でも損だから止めるというのは、自分がケチに感じられるのです。損をするかケチになるのかを天秤にかけて、私は損をする方をとりました。この選びは私の頭でなく、いのちが選んでくれたのだと思っています。

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